ちょっと前に書きましたが、嫌いを克服したと言うのか、そもそも嫌いなるに至る、積極的に中身を知るプロセスを経ずに、なんとなく風潮に従って何となく嫌いっぽいくらいな感覚でしたから、克服でもなんでも無いことかもしれません。眼鏡とか、服とかの領域でよく使われる「ブランドが嫌い」という感覚に近いかもです。どの具体的なブランドにも自ら近づくこともなく、何となく大きいものを嫌ってみるみたいな、あれに近いです。
それで、アレコレあって嫌いでは無いと判明したわけですが、好きかと聞かれるとそういうわけでもなくて、いや、そういうわけでも無いわけでも無いんですけど、好きすぎてモジモジして「いや、別に、好きじゃ無いし」という感じではなく、好きな作家を尋ねられて咄嗟に名前が出るくらい好きでは無いのかもしれないという感じです。ここで、“かもしれない”という表現を選んだのは、例えば好きな食べ物は年に1回か2回尋ねられることはありますが、好きな作家を尋ねられることは年に1回あるか無いかでして、まだ村上春樹さんを読み始めてから他人に好きな作家を尋ねられたことが無いからです。咄嗟に名前が出るのか出ないのか、まだその場面に遭遇していないからです。面倒な紆余曲折を経ましたが、一般的には好きで、そういうことで良いと思います。
しばらく小説を読んでいませんでした。休業中にみたヤフーニュースに上がっていたので買いました。それで、いま読み終えました。
短編集です。はじめの『石のまくらに』なんて、始まって6行で合体(した事実)が書かれていまして、このお得意の手法を槍玉にあげたいのならば、始めからどうぞ好きなだけ叩いて下さいの精神が垣間見えます。いきなり1ページ目で差し出されます。要は、007みたいな感じでお決まりの、ということなんでしょうけど。私も、そうやって納得させて、過敏に反応しないようになるまでに時間が掛かりました。
今回の短編集に収められている『ヤクルト・スワローズ詩集』では、その手法を自虐的に持ち上げていまして、男女の関係で喩えようとするのを自制しています。その辺まで自在となりますと無意識っぽい文の部分も、隅々まで意識が及んでいそうですね。
その『ヤクルト・スワローズ詩集』の最後、149ページに多大なる共感を覚えました。あぁそうですね、ブルバキも黒ビールです。すみません、しかも黒ビールしか無いです。この自覚も、ブルバキの黎明期には無かったですね。