カテゴリー:雑記

週報
雑記

21.10.20

今週は、休んでばっかりでした。明日は定休で、明後日からがんばります。

土曜日のオペラは、何となく勘違いしていまして、AIとか言ってましたけどアンドロイドってのが前情報での見どころでした。書き間違えたなーとか思って見終わって、製作者のアフタートークを聞いていましたら、AIによる作詞や一部即興が組み込んであるみたいな話が出てきまして、結果やっぱりAIが裏の見どころなので安堵したと同時に、すごい時代だなって思っちゃいました。古いメガネを触っている場合じゃ無いかもしれませんね。

半自律的な道具は相棒になり得るのか?これが探求のテーマらしくてですね、たしかに、普通道具といえば主従だなと。銀無垢なんかは、経年変化が予想不可能ですし、銀無垢のメガネ側に意思のようなものが組み込まれていないとはいえ、微かにそのテーマと重なるようなところがありそうです。都合よく、自分の倫理観や商売に好き勝手重ね合わせてしまう部分が多々なので、この辺でやめておきます。

メガネの展示会は、今年はベストドレッサー賞がありませんでした。残念。来年度からの国家資格化の説明会を聞いて、夕暮れどきのゆりかもめが好きなので今年もそれに揺られて東京駅の方まで帰り、今年も大丸で芋きん買って帰りました。

16日土曜日は休みです
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雑記

21.10.13

今の段階で判明しておりますので、16日は休みます。AIのオペラというものが当たりまして、観に行くことになりました。スニーカーは当たらないけど、オペラは当たりました。そもそもオペラ自体が初めてですし、オペラという形式がそういえば分かっていないです。観劇にスニーカーはダメですかね?

2年か3年前に、AIに人間が取って代わられてしまうぞブームがあった気がします。眼鏡屋もそうですね、フレームの似合ってる度を測ってくれる装置やネットサービスがありますし、検眼もオートレフ(気球のやつ)の値から足し算引き算をして矯正度数を求めるだけだったりしますと、要はフィッティング以外は演算で求まるということで、AI化が出来そうです。フィッティングも頭部形状をスキャンすれば、出力である実際に形状を合わせる行為、それ以外はAIに出来そうですね。AIに取られるのか、そこはサッとやってもらうという感じなのか、どう捉えるのかという問題もあるんですけど、眼鏡屋も仕事取られちゃうぞ話はあります。

AIが人間に“完全に”取って変わるには、人間とは何かが完全に理解されて、ある形式で隈なく表現されて、それがプログラムされないといけないのでさすがに難しいでしょうね。人間とは何かが完全に理解出来たなんてことになれば、哲学が黙っていないでしょうし。そうなんですけど、反復試行で学習をしまくったのか、はたまた製作者の人間に対する精緻な観察が盛り込まれまくったのか、その他アレコレによるのか、それらの努力の積み重ねでどこまで人に近づけられたのか、その現在を観れる機会に恵まれたというのは嬉しいですね。目に焼き付けてきます。

もうこんな季節
雑記

21.09.28

メガネ業界の新年は、IOFTのある10月から始まると勝手に思っています。今年も何だかんだ行く予定です。今年は8月に工場に行っていますけど、東京でもお話ししてこようと考えています。来年の無垢物はどうしましょうね。

今年からついに、招待状にメガネベストドレッサー賞の受賞者が載っていないんですよね。受賞者を拝見して、授賞式のある初日に行くかどうか決めていた人間としては痛いところ突かれました。そして、隠されると楽しみが増幅しますね。

物と心
雑記

21.09.04

そう言えば、たまたま手元にあった感じです。この前ここで紹介した『日本哲学の最前線』において、J -哲学の起源を大森荘蔵の『物と心』と紹介しております。大森という個性の息吹で満たされており、それは(純粋な学術書というよりも)アートの意味の「作品」だと言える、だそうです。だそうですというのは、確か5年くらい前、豊橋のブックオフで買って読んだときには、全然よく分からないって感じで投げ出したか読んだつもりでとりあえずページと中の字だけ追ったか、そんな感想しか思い出せなかったからです。初めての印象は???でしたが、そこまで賞賛されていると、もう一度読んでみようという気概も生まれてくるものです。今のところ、6章までと最後の14章(帰納と確率)まで読んでみました。

結局、門外漢な私は一貫したほにゃらら派という芯がないので、どの本も読むごとになるほど!しか思わなかったりします。たまに、他人のレビューとかをチラ見しますと、あの観点からだとこの本の主張は突っ込みどころ満載なのかと、驚くことも多々です。

(p.216,217 第II部 物と言 6章 ことだま論より)

現象の背後に実在を想定する二元論の仮構を否定し、立ち現われという一元論を提唱します。ですから、表題に「物と心」と書きましたけど、本の題名にもなっていますし、そもそも物と心という分割がナンセンスですなあという雰囲気です。その立ち現われ一元論を据えたときに、正しさとか正しいと信じることはどうなっちゃうのか?ということが書かれた部分を引用しました。一元論を採用して信じることを分析してみると、割と辛いですね。現代ではますます成立しにくい事柄と言えそうです。ここでも、身体性が鍵になってきます。

いつもいつも、結局毎度お馴染みの葛藤になります。貴金属や手彫りといった要素を持つメガネや、ヴィンテージといったやや特殊なメガネを扱っている以上、まさにわたしとの関わりのないところで“美しい”だったり“時代を越えてカッコいい”だったり、定まっていて欲しいとつい願ってしまいます。

(p.424,425 第Ⅳ部 論理と世界 14章 帰納と確率)

さっきの6章をより理解出来るようにと、とばして14章読みましたがあまり足しにならなかったかもです。これは大学の数学科で、尚且つ確率を専攻しないと???かもしれません。まさに私は確率専攻でしたが、それでも?な箇所がありまして、学ばせてくれたお父さんお母さんごめんなさいと随所で思いました。

あとがきにも書いてある通り(ちくま学芸文庫版)、論証がほとんど無く脇道に逸れずにずっと同じことを言い続けてくれていますから、読みやすいといえばそうですし、でも分からんし、でも何となく納得もできる不思議な本でした。

いい感じです
雑記

21.08.20

まだ2章までしか読んでいませんが。読み始めからいい感じです。自由のための不自由論として理解していく、この始めの宣言のおかげで読み進めても目的を見失いにくいです。そして、以下の立場を取っているので、ここで紹介されている6名の方がブツ切りにカタログ的に紹介されているだけではないということが鮮明です。

p.78 第2章の終わり

(p.78 本書で取り上げる六人の哲学者はそれぞれ異なる顔をもつのだが、その立場の表面的な対立は総じて《世界のどの側面をクローズアップするのか》の観点の違いに由来する。そしてすべての立場は根本的には〈不自由〉への眼差しという点で共闘しうる。)

読んだことある割に、第1章の國分功一郎の『中動態の世界』の解説では、なるほどの連発でした。つまり、あんまり深く理解出来ていなかったのだなぁと感じました。あとは、やっぱり専門家すごいなぁってなります。

そして第2章では、前章で自由意志の存在が否定されたことを受けて、そうは言っても自由意志があるように感じてしまうこと、その整理みたいなものが付くように、青山拓央の『時間と自由意志』の紹介と解説が組まれています。オリジナルな部分の解説をしつつ、対立しているっぽく見えてしまう両者を繋げる(繋がることの説明?)流れは感動します。この辺の議論は、まさにブルバキとしても苦悶煩悶の繰り返す部分でして、読んで少し気が楽になりました。この前の時間論にも通じますが、無いと言われても、有ると思ってしまう私のこの心との折り合いがついていないんですけどみたいな部分をなだらかにしてくれます。

EBI
雑記

21.08.18

思った以上にエビのプリプリ感が強めでした。3メートルくらい離れるとオレンジのスウォッシュに見えて街に溶け込むかなと思ったんですけど、ずっとエビです。家族にはゲラゲラ笑われて、もうEBIでいいじゃんって言われたんですけど、それだと本当に全部エビで、組合の非売のパロディかなってなっちゃいますもんね。

対面での掴みが良くて、癖になってしまいました。お気に入りで2日に一回のペースで着ております。購入を悩んでいる方は、タイミング合えばブルバキで客観的に眺められるチャンスです。擬態は出来ていません、エビです。

久々に鯖江行きました
雑記

21.08.05

オフィシャルな機会がありましたので、それならと行ってきました。極力、製作風景は見ずに、自分が直に感じた物の美しさのみで作り手とは違う方向から販売の努力をしないと、それなら間のブルバキ要らんわーって話になっちゃいますから、見ないようにしていました。最近、服ではファクトリーブランドが増えたし強いし、そういうことかなと思っています。眼鏡もお店が製作を開示するみたいなことをやり過ぎると、直にそうなるかもしれませんね。

そんなこんながあって伺うことは控えていましたが、まあでも製作をみたい欲求があるに決まっていますし、今回はその欲求に素直に従ってみました。鯖江は5年以上ぶりです。

一般向けの眼鏡フェスが中止になった関係で、このめがね大学も一般参加は無しになったみたいです。気になる方は、来年以降で。ぼちぼち張ってみて下さい。

AIが勧めてくれました
雑記

21.07.04

前作の『数学する身体』をamazonで買ったどうか忘れましたが、多分ジュンク堂か高島屋で店頭で買った気もしますが、新作をamazonで買ってみました。注文履歴や閲覧履歴から算出される予想の精度の高さに驚かされます。

歴史を紐解きながら、計算から人間を取り去ってどんどん純粋にする過程が学べます。結果、やはり身体性が要るよねって話に戻るところはなるほど!と、数学の演奏会の時と同じような感動がジワッと味わえます。そしてルンバが欲しくなります。

ちなみにこれの前に読んだ本『超ポリコレ宣言』というのをここで挟みます。鼎談をまとめた本でして、鼎談の一部分を抜き出す行為はまさに観測によって情報が壊れてしまうみたいなデリケートな問題もありますが、とりあえず気にせずにこの鼎談からも身体性に言及している部分を引用します。

「p.235 (千葉) 「私の身体が失われた」と、私個人の問題だと思っているけれど、実はもっとマクロな、時代の問題として、「身体が失われた時代」の中に自分が投げ出されている、ということを訴えているのかもしれませんね。」

「p.250 (千葉) 「子供を大切にしろ」と言っているのは、イコール「私を大切にしてほしい」ということなのであり、「私」というのが、まるで生まれたての子供のような状況に置かれているんじゃないかと思うんです。小さな子供が周りの刺激を一身に受けているのと同じような状況に、自分の身体が置かれている。…とにかく刺激に圧倒されるということにおいて、みんなが「私も同じ=身体の喪失※」というようになっている。(※のイコール以降は、勝手に補足しました)」

ここでいう刺激というのは、ネットを指していました。何か大きなものを絶対とし、個を規定していくことの難しさや破綻というものは、この前の「時間は存在するのか」という本の内容にも通じます。全員に均一で等質な時間や空間が初めから与えられているという前提がどうなんだ?という話です。

『計算する生命』では、生物学の新しい世界の捉え方を紹介しながら(それは、『暇と退屈の倫理学』で紹介されたユクスキュルの“環世界”と違うのか、そこまでは私には分かりませんが、近いものを感じます)自律的な生命と、自動的な計算との間がまだまだ存在することを示しつつ、今度は生命が計算に近づきつつある昨今に警鐘を鳴らしています。ここでも身体性の喪失への危惧が垣間見えます。

ということで計算と名前につく以上、バッチリ数学の内容の本ですが、数学に興味なくてもこの本自体は現代と悩みを共有していそうですし(例えば身体性)、きっと面白いです。面白かったので、AIに勧められた私が勧めてみました。

ポストモダン
雑記

21.06.16

お客さんに教えて頂いて、とりあえず第1章の名古屋編読みました。私は、正確には三河育ちで名古屋を語るなんて恐れ多いのですが、クスクス笑いの連発でした。今はこっちに住んでいますが、書いてある通りだなと思います。

グリーンベルトの草ぼうぼうって、他所では無いですかそうですか。

抗う
雑記

21.06.06

久々に時間論です。帯見ても、カバーの裏見ても、「エレガンス!最高!」みたいな雰囲気が漂っていまして、例えば数学で「エレガント」な解法みたいなエレガント系賞賛のときは、本当にすらすら分かりやすい明瞭さを伴っています。ところてんを食べるときの感覚に近いですね。なので、そんな心持ちで挑んだところ、結構??が多くて戸惑いました。まあまあ噛まないとダメでしたね。式を使わないというポリシーが本に貫かれておりまして、それのおかげで読みやすい方もおられるのでしょうが、個人的にはそのせいなのか6章くらいまでフワフワしちゃいました。

この本よりも10年くらい前に、日本で出版された本があります。結論はほとんど一緒だと思われます。正直、「時間は存在しない(以後カルロ本)」の理解のためにこの「時間はどこで生まれるのか(以後橋元本)」を参照しまくりました。カルロ本は、専門家として時空に作用する要素として重力の考察があります。ただ、橋元本の相対論の理解がないと、「ごめん、その前に速く動くと時の流れが遅くなるってことに、まだうんって首を縦に振ってないんだわ」という感情が噴出して、この辺でギブアップしてしまいそうになります。エントロピーの部分の理解にも、橋元本の赤玉と白玉の交換の図が大いに役立ちました。

カルロ本の訳者あとがきにある通り、マクロな時間の源泉が、ある数学の非可換性のみで確保出来るのでは?という考察は、理解度50パーセントながらおぉーってなりました。

カルロさんも橋元さんも、マクタガートの時間系列A・B・CのA・Bは実存しなくて、Cだけあるよねって主義です。サイエンス的にはAもBも無いって言われても、現にいま私の心にたぎるAの時間はどうしてくれるわけっていう心の落ち着かせ方は微妙に異なります。ですが、ざっくりな理解ではあんまり変わらない気がします。それはエントロピーの増大と意志が鍵になっているという主張はおおよそ一緒なはずです。

カルロ本と橋元本では正反対な題名なんですけどね。橋元本で始めに引用される、マクタガートの分類を適用すれば、どの時間が存在しないのか、そしてどの時間がそれでも尚、生まれてくるのかというのが分かります。

橋元本の初版が2006年です。カルロ本(日本語版)は2019年ですから、少なくとも13年ほど、この「あってC系列くらいだわ」という派閥が存在しているということに安心しております。私が橋元本を始めて読んだのがおそらく2010年ごろです。ブルバキを始めるときには、橋元本のエントロピー増大が云々それに抗う意志が云々みたいなことが、頭の片隅にありました。今はサンプラチナもやってますけど、とくにブルバキを始めるにあたり銀無垢がどうしても外せなかったことは、この辺に関係しています。当時は、普遍性とか言っていた気がします。

この5年で、ヤフオクだけでは無くてメルカリやら何やらも普通になりましたし、なんならebayも普通になりつつあります。頻繁な売り買い・物の出し入れでエントロピーの増大に抗うってのも一つの方法ですし、基本はそれが推奨された行為なんでしょうけどね。でもやっぱり動かないっていうのを何とか作りたいなぁという気持ちは今もちゃんとありまして、今年もなんか作ります。

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