カテゴリー:雑記

買いました
雑記

21.02.26

私がその問題を始めて知ったのがおそらく20年くらい前で、確か中学生くらいのとき。他人のお母さんのおにぎり食べられるか問題というものです。

その問題を知ってすぐだったと思います。だから20年くらい前で間違いないです。友達の家でマリオテニス64をやっているときに、その子のおばあちゃんが手作りいなり寿司を出してくれたことがありました。あぁこのことかと。私は試されているんだなと勝手に思って、勢いよく食べた記憶があります。何なら、今までそんなの全く気にしていなかったのに、そんなの言われたら、ちょっとこれから意識しちゃうじゃん…みたいな、ここだけ切り取ると恋心に気付いたときのセリフみたいな感じですね。まあでも知らなくても良いことなんて沢山あるなと思った記憶が残っています。知らない方がスムーズなことなんて沢山ですよね。

ブルデュー関連の本を読んでいます。この前の100分de名著のテキストの中で紹介されていた本です。この部分を読んで、お母さんのおにぎり問題を思い出しました。手造りが一番みたいなことを聞くと、私は頭の中で手造りおにぎりとコンビニおにぎりを同時に差し出しています。

ブルデューのこの辺のはなしとか研究内容が、まさに眼鏡周辺にも当てはまる気がして目が離せないです。

あの頃のあれは何だったのか
雑記

21.02.20

面とか曲面とか角とかの話に今週はなりまして、なるほどなぁと教わったことが多かった週でした。

それで、そういえばなんですけどそれに近い話というのは中学校のときに習っています。連立一次方程式というやつです。

あれは、計算問題として捉えれば非常に味気無いんですけど、実際、なんとか法の二つで解けます的な習い方しかしませんし、ほんとうはもう少しコク深いです。

あれは、平面上に平行でない2直線があって、それはどこかで交わりますなぁそれが無性に知りたいですなぁという、そんな話に置き換えられます。

じわじわ記憶が蘇ってきたと思いますが、答えの書き方は例えば (x,y)=(○,△)みたいな形式です。ただの表記の問題ですから、嫌であればx,yを横と縦に呼び変えても問題はないです。

平面上で横と縦が決まれば、そうです点を示します。私も18歳過ぎて気づけたんで、数学科を目指した人間としては遅すぎるとは思いますが、ここが面白くて、平面(2次元)の中で1次元(直線)と1次元(直線)が交わると、点(0次元)が生まれます。

そうなりますと、なんとなく想像を働かせまして、空間(3次元)に二つの平面(次元)があって、交わるとなにが生まれるかといえば、やっぱり直線(1次元)が生まれます。

雑なスケッチ載せておきます。交わる箇所に(青)直線があります。交わっている感が欲しくて描きましたが、折り紙の要領で畳めばそこに線が生まれます。それです。

なんとなくダラダラ書いてみましたが、もう少し雑に言えば、条件を課す毎に次元が下がるという話でして、直線を見るにしても点を見るにしても、どんな制約が潜んでいるのかみたいなこと考えると、一度見たものでももう一回見るのが面白くなったりします。自由な線とか表現としてカッコ良くて憧れますが、制約でしかない線と言い切るのもストイックでカッコ良さそうです。

ヴィンテージの眼鏡の世界では、どうやら角というのがキーワードですが、どの2平面によって成されるのかというのを探しながら眺めると乙でしょうね。

マジかあ
雑記

21.02.10

名駅のとぐろは、飛翔という名の芸術作品です。私も去年くらいに知りました。なんなら、噴水っぽく水も出せる仕組みが搭載されているみたいですね。

飛翔がいつか飛翔しちゃうのは知っていましたが、それが今年の3月だとは。引退のセレモニーも無いって。最後、水出して欲しかったなあ。

3周回ってスピルバーグ
雑記

21.01.24

昨年12月の100分de名著が「稲妻の一撃」でした。ようやく録画を見れましたし、テキストも読めました。年末の買い出しのときに、高島屋でついでに買って店に積んでおこうと思い本屋に寄りましたら、そのときは在庫切れでした。やはり、稲妻の一撃だった人が多かったんだなと妙に納得した次第です。今後の展望としては、ディスタンクシオンの本チャンを読む前に、迂回してテキスト内でオススメされている磯直樹さんの本を読もうと思っています。

『ディスタンクシオン』のテーマは、趣味とか嗜好という個人的な領域が、いかに社会と結びついているか(テキストp.5)ということでして、自分が好きで選び取った(区別した)はずの趣味というものが、実は社会構造によってはっきりと傾向づけられていることを明かしたそうです(テキストp.5)。

私個人で言えば、例えば最近だとスニーカーなんですけど、ニューバランスが好きです。そりゃ好きなんですけど、それもニューバランスがファッション界隈でどういう位置付けで、ニューバランスを履いているとどういう風に見られるのか込みで好きであるということが既に暴かれているという話がディスタンクシオンだそうです。そうしますと、私みたいなファッション天邪鬼は、一周回って逆に超王道だなということで、最近はナイキのジョーダン1を履いていますが、一周回った時点で大いに社会構造に巻き込まれています。ディスタンクシオン的には、あなたの経歴を見ていると、まさにそう言うと思いましたよ、ということでしょう。あえてのハイカットじゃなくてミッドなのも読めていましたと、どこまでも恥ずかしい限りです。ダンクのローじゃなくて、ジョーダン1のローって次は言うと思いましたよ、まだ続けますか?と。しくしく。何を履けばいいのか…。

テレビ放送では、映画を例に出していました。伊集院さんが「…そうしますと、3周回ってスピルバーグとか言う奴が出てくる訳ですね」と仰っており、本当に私を見てそのまま批判されているのかなと思うくらい的確に突かれた気分でした。ちなみにそれへの解説者の返しは、「3周回った奴の次は、8周回ってスピルバーグが出てきます」だそうです。だから、それも私が言いそうなんだよね。

ことさら私が核心を突かれてイタタタとなったのは、ということはですよ、純粋経験というものは無いですねと、そこです。散々、それについて苦悶しながら店を開けてきましたが、そもそもそんな純粋さは無いですよと。そこが、店にとってイタタタなポイントです。今まで拠り所にしていたところが、打ち砕かれてしまったことです。

テキストでは「『稲妻の一撃』の否定(p.19)」という章があります。たまたま出会ったということの否定です。冒頭で、稲妻の一撃とわざと使いましたが、全然そうでは無いみたいです。確かに、そう言われればそんな気は今までも何度となくしてきましたが、科学的な観察をもとに、統計学を用いて結論づけられているとなると、流石に凹みますこたえます。

ただ、ドン底まで凹まなかったのは、まさに純粋経験のような外的要因に左右されていない、主観と客観が分かれていないみたいなピュアなものを、実無限的に捉えることが間違っているのでは無いかと、ぼんやりと考え始めていたからです。つまり、純粋経験という圧倒的に高潔な経験が存在すると仮定し、何気ない日常の経験を非純粋な、不完全な経験とみなすことに間違いがあるのでは無いかと気づき始めていました。最近のブログで載せた、小林秀雄の経験に関する文章にて、経験というものはそういうことじゃ無いんだよと既にたしなめられており、それが緩衝材になってくれたおかげでディスタンクシオンにパッと出くわしてドンっとぶつかっても、衝撃で再起不能になるというまでには陥らなかったのでしょう。

稲妻の一撃は無い、純粋経験は無い、それを呑んでしまうと何を高らかに宣言すれば良いのかと、そこは正直困ってしまいます。個人のお店が存続するにはそういうスローガンみたいなものが、強く惹きつける何かがあった方が実際は経営しやすいですからね。そこで勇気を持って良心に従い、知ってしまったからにはもう戻れないと、純粋経験は無いぞと腹を据えたところで、さてどうしようと困ります。わたしは、何を拠り所に頑張れば良いんだっけ?と。

純粋経験的なものを、実無限的に捉えることは間違っていると、そういったものは無いぞという話でした。では、ディスタンクシオンは純粋経験を可能無限的にも無いぞと、そう捉えるのは間違いだぞと、そこまで拒否しているのかといいますと、まだ原本まで到達していないですから微妙なところなんですけど、テキストを読む限りではどうやらそこに希望が見出せます。そこまでは拒んでいなさそうです。以下、引用します。

「(テキストp.98)もしみなさんが『ディスタンクシオン』を読んで、自分のやっていることを台無しにされた気分になったのであれば、自由の神話にとらわれているのかもしれません。本質主義的な「稲妻の一撃」にとらわれている。私たちは、自由とは何の規則にも従っていないことだと考えがちですが、何の規則にも従わないことはそもそも私たちには不可能です。すでに述べたように、有限の規則から無限の行為を産出していくこと、それこそが私たちに与えられている自由なのではないでしょうか。」

以前に紹介した、『無限論の教室 野矢茂樹著 (講談社現代新書)』にも、近い表現があります。こちらの方が、これからどのように過ごせば良いのかイメージを湧かせてくれる気もするので、もう一度同じ箇所を引用します。

「(無限論の教室 p.229)可能無限の立場からはこう言えます。公理系が必要ならば作ってもよい。しかし、完結した公理系など作れっこないのです。無限は完成を拒んでいます。そこからはみ出たものを捉えようとし、捉えたと思ったときには新たなものがはみ出ていく。このたえざる歩みこそが、人間が無限を生きるということにほかなりません。そもそも完結した全体としての完全なんていうものがないのですから、“不完全”ということも無意味でしょう」

文章に似たような箇所があるからといって、純粋経験が可能無限的には、ディスタンクシオン的には完全に拒否されていないと関連づけるのも科学的論理的では無いなと思うんですけど、まあでも、なんとなく余地が残されている気がしませんか。特に、はみ出ては捉えてのくりかえしであるという無限論の教室での表現は、お店にしても例えば物作りにしても開け続ける作り続けることの、マネーの側面だけでは無い動機づけにもなりますから、案外ポジティブな話だったのかもしれません。

長くなりました。本当に反省したので長くなりました。竹原ピストルさんの何かの歌詞で、「自分の積み上げたもので闘うのではなく、自分の積み上げたものと闘う」みたいな歌詞があった気がします。ようやく自分ごととして沁みました。

つまりブルバキよ、お前はもっと黙って物を売れということですね。今まですみませんでした。いまは一周回って値札付けっぱなしです。番号管理やめました。

やっと終わった
雑記

20.12.23

途中、何個か飛ばしました。通算で1年半くらい読み終えるのにかかってしまいました。ほとんど分からなかったです。そんな感想だと「それならきみの言う“わかる”なんてものは、単なる投影か、せいぜい書き手に了解を得ていない虚ろな共感もどきじゃないか」みたいに著者から指摘されそうですけど。

なんとかこの、匹夫…の項目は、スラスラと読めました。店を続ければ続けるほど、まさにそんなような変化を感じていまして、そうだなぁの連発で読んでいてしみじみとしてしまいました。志の成立過程の批評は当てはまり過ぎて、居候時代の私なんかは殊更ダメですね。自分で改めて過去のブログを振り返るとかしませんが、店を始めて一年目はどういう心境か、二年目は…というのは覚えています。そういうときは読んでいて、無性に恥ずかしくなります。

写真は、経験について書かれた部分です。志から経験に移り、最後もう一度志に回収される凄技が垣間見れます。このページの後も爽快です。

経験と語った瞬間に、自分と切り離して経験一般みたいな型に嵌め込んでしまうのがいかんのでしょうね。何でも経験しておくと良いよね的な言葉は、正にだと思います。そんなに個々人は、全部が全部痛切に経験出来るのか?問題がありまして、経験せず通過するだけのことも沢山あります。例えば私で言えば、サラリーマン時代の飲み会は、若いうちは経験すべきと言われて酒も大して飲めないのに割と参加した方ですが、多分あれは経験せず通過でした。結果、飲み会の存在しない個人店の店主です。あの通過は多分、いま活きていません。

今年は、無垢物に動きがありました。特に彫金に。今までのお客さんではなくて、新規でいきなり決めて下さる方もいらしゃって、お店を構えてしっかり販売しといて何ですが、驚きました。古びたビルの看板も出ていない個人の眼鏡屋で、逆に怪しくない要素の無い店で、他と比較しづらい眼鏡を決めることは、大変なことだと察します。その大変な決定の瞬間を、何度も目撃させて頂きました。あれは、お客さんと物が分かちあった、まさに経験の瞬間だったのだろうと思います。小林秀雄はベルグソンに傾倒していますから、ベルグソン的には純粋持続でしょうか。そう表現すると、どっちからも全然違うと指摘されそうですね。とにかくありがとうございました。わたしには希望です。

年末の締めみたいな文章を書いてしまいました。明日から休みみたいな。一応、明日は定休で27日までやる予定です。つい勢いで、つい気持ち良くなってしまって、ダラダラ書いてしまいました。

まだまだ続く
雑記

20.12.06

ようやく、決着が自分なりにつきまして、わからないことが好きというのは有限主義なんだなと。そうです、以前のブログ書いてからも、延々と考え続けていますよ。

分からないことが好きというのは、「この文は間違っている」に近いなと。つまり、分からないことが好きというのは「分からないことが好きということが分かっている・明瞭である・判明している…」という状態を示していると思うんですけど、分からないというイメージとしては濁っている感じのことが、迷いのない透き通ったイメージの好きと組み合わさっており、結局どっちなの?好きなの?嫌いなの?この文は合ってるの?合ってないの?みたいな疑問がずっとありました。

違うんだと、混ざっていないんだなと。分からないという濁りをそのままパッケージしてそこで区切り、その上でパッケージごと好きなんだなと。そういうことかと、何となく腑に落ちました。つまり、好きという宣言が有限主義の宣誓そのものなのだと、そういうことです。その方がいつまでも分からないとして、延々のたうち回る可能無限や実無限の立場よりも賢明なのかもしれませんね。

それでお前はどうなんだという話なんですけど、お会いした方はご存知の通り、分かりやすいものが大好きです。今日の、ケミカルな黄色の花瓶は結構気に入っています。

吹上の骨董市やってました
雑記

20.12.06

昨日の夜に知って、急遽本日の開店前に覗いてきました。吹上の骨董市です。コロナでやってないのかなと、5月も9月も気にしていませんでしたが、どうあれ12月はやってました。

出店も半分くらいで、めちゃくちゃ空いていましたね。今年一番、コロナの影響を感じたかもです。もうアレですね、骨董古物もネットオークションの時代ですね。

とりあえず何か買わないとと思いまして、どの花の美しさも搔き消しそうな花瓶を買ってみました。特に黄色がケミカルな黄色で良かったです。あと、初めて公式の買い物袋を頂きましたが、これのニセモノ感が私には刺さりました。

途中、ピザの話です
雑記

20.11.25

民藝のお勉強。そろそろ、この本は前読んだあの本と似ているなとか思い始めたので、民藝が頭に入ってきたかも。全集7巻『民と美』です。色んなことが滅多打ちでして、私も無傷で読むことは出来ませんでした。

あれなんですね、やっぱり最大多数の最大幸福が念頭にあるんですね。そしたら、ブルバキの銀無垢等々は生産数一桁ばっかりなので、世界中の人々が使ってニッコリ出来ないので民藝の観点からはダメでした。ここでの分類ですと、美術工芸のカテゴリーでしょうか。いずれにしても、大半は健やかではないと一蹴されちゃうんですけど。やっぱりブルバキはカルチャー無いわー。しくしくです。

ちょっとブログで書く旬を逃しましたが、2週間くらい前に、ドミノピザをピザのプロ達が食べて合否を出すテレビ番組が放送されていました。

アレをみて思ったんですけど、それは村上隆の「アート」の分類から着想を得ていますが、pizzaとピッツァとピザが有りませんかね?ごめんなさい、突然変なことを言い出して。眼鏡屋なのに。以下、もうしばらくピザの話です。

なんとなく、ざっくりな分類で。イタリアの正統派な“pizza”、日本のお店による、pizzaの解釈によってうまれた“ピッツァ”、そして宅配ピザとかの“ピザ”です。ピザにピザ(伊)とピザ(米)の分類があるかもしれませんが、一旦省略です。さっきの、「ピザのプロ達」という部分は、この分類では「pizzaとピッツァのプロ達」となります。

これに、順序構造を組み込んでしまっていませんか?そこが引っかかったところです。無意識のうちに、“pizza>ピッツァ>ピザ”の順序が尺度として想定されていませんか。要は、ピザはpizzaとピッツァと同一の物差しで測りうるのか?測れたとして、その物差しではpizzaが最大となるのか?色々考えようと思えばキリがありませんが、

(ピザ)=k(pizza) (kは実数、0<k<1)

みたいな関係が、まさにリニアな関係が無意識に想定されている気がします。数式にしたらここまで何で一生懸命書いてるんだろうと、一層自分に呆れてきました。際立ちましたね。

ここで、もう一回ピザから民藝に話を戻します。民藝は、美を美術と美術工芸と民藝に分類するところから生まれているみたいです。そうしますと、pizzaが美術でピッツァが美術工芸で、ピザが民藝でしょうか。つまりは全部美味しいってことです。

眼鏡ですと、例えばブルバキに於いてですと、銀無垢の眼鏡に対して「チタンの眼鏡と比べてどう?」みたいな質問を頂くことが、ぼちぼちあります。

眼鏡だと分かりにくいですがピザなら分かり易いはずです。あっさりなピッツァの気分の時もあれば、マヨネーズがドバドバのピザの気分もありますよね。きっと、チタンの眼鏡と銀無垢の眼鏡の違いは、そういうことだと思います。

今年も登場
雑記

20.11.16

多分、過去2回はこのブログで紹介しているはずです。前は、表紙が違ったかも。良い本は何度も読みますし、何度もこれに書きます。他人に差し上げて一度は手放しましたが、結局自分が読み返したくなるので古本で買いました。一回は新品で買っているので許してください。

少なくとも1年以上は、前回読み終えてから期間があいております。そしていま読み終えての感想は、初めて読んだかのように面白いです。それは、内容が頭からすっ飛んでいたからというわけでも無いです。

大学の専攻は数学でしたから、今回読むまでは、実無限派として読んでいました。ですからこの本の中でのやり取りを、真剣に吟味しようとしていなかったんだなと、過去2回は読んだ気になっていただけだったなと、新たに気付けました。そしていまわたしは、やや可能無限派に属しているんでしょうね。片足は確実に突っ込んでいます。それが成長にリンクしているのかどうかは分かりません。現代科学は実無限派ですから、その観点からは退化かもしれません。

どっちにしても、この本の中でのやり取りが、自分に向けられているように(この本としては、私も3人目のゼミ生になったかのように)切実に響いたということは、自分が実無限派から可能無限派に移行しつつあることは間違いないです。カッコつけてあれこれ言ってみましたが、要はうんうんと、何度も読んでいてなりましたよと、ちゃんと染み込みましたよという話です。

例えばですね、私でしたら仕事的に眼鏡の美しさということになるんですけど、その美しさに対しての捉え方とかアプローチの仕方とか追求の仕方とか、それがまさに実無限的から可能無限的にと言いますか、そんな風に、店を続けるなかで移行をしていることに気づきました。特に読んでほほぅ!と手を打っちゃいそうな部分、移行を感じた円周率πについて書かれた箇所を引用します。

p.34「有限主義というのがあります。これは有限のところで頭打ちにしてしまって、可能性としての無限も考えないんですね。可能無限の立場は有限主義とは異なります。天井知らずの有限主義と言ってもよいかもしれませんが、あまりうまい言い方とも思えません。展開の果てしなき可能性、それこそが無限だと考えるのです」

「…πという無限小数のすべての位が実は確定しており、ただ人間がそれを有限の位までしか知らないだけだと考えるのは、まさに無限を実体としてそこにあるものとみなす態度にほかなりません」

p.229「無限は完成を拒んでいます。そこからはみ出たものを捉えようとし、捉えたと思ったときには新たなものがはみ出ていく。このたえざる歩みこそが、人間が無限を生きるということにほかなりません。そもそも完結した全体としての完全なんていうものがないのですから、『不完全』ということも無意味でしょう。例えばπの小数展開に対して人間が為した有限の展開が、完結した無限小数としてのπの不完全な認識なのではなく、際限のない未完の作業であるように、それはむしろ、永遠の未完成と言うべきなのです」

ちなみにp.229は、この本の主要テーマであるゲーデルの不完全性定理のざっくり証明が終わった後のアフタートークです。この“そもそも完結した全体としての完全なんてものがないのですから、『不完全』ということも無意味でしょう”という部分の味わい深さは格別だと思います。

そして、この引用部分の“無限”を、さっきの美しさみたいな単語に置き換えてみたり、各々で自由に理想とかザックリと、そして漠然とした長大なもの・こと等に置き換えますと、なんだかそんな気がしてしまいませんか。私は、そんな気がしてきちゃいました。

それで、そういう風に認識が変わったとしまして、明日からの提供される眼鏡がどう変わるんだと言われてしまいますと、おそらく大きくは変わらないんでしょうけどね。いつも通りのらりくらりで、ブルバキが急に明日から流行るとかも無いんでしょうけどね。ただ、そういう心持ちで店を続けるのだなと、続けるとはそういう意味がこもるのかと、ちょっと教えて頂けた気分になりました。なので、また懲りずに勧めておきます。

頂き物
雑記

20.10.21

全集頂いたのに、読めていませんでした。本棚のコク出し要因になっていました。

ようやく手が空いたので、一番気になった「物と美」から。小林秀雄の直覚と分析に近い、ほぼ同じかな、そういう話です。常に直覚から始めなさいよ、と。分析からは直覚に至りませんよ、と。

この本では「もの」と「こと」と表現していましたが、この表現がそのまんま現代にカッチリ当てはまりますし、そのおかげもあって読みやすいです。読みやすいというのは字面を追いやすいという意味でして、本当に理解し得ているのかは私も分からないです。そういう意味では難しいです。

確かに好きという言葉が指すものが外からの観察か、内に入っての戯れか、それはいつも気にしています。

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