最近の徒然zakki

20.03.29

テレビ番組『100分de名著』の3月、とても良かったです。良すぎて、立ち読みをせずに勢いでテキストと小説を買ってみました。人生初の、SF小説です。映画でしか触れてこなかったですね。

いまこれを『太陽系の最後の日』を読み終えた段階で書いております。テキストは“はじめに”と、“第1週 知的好奇心が未来をつくる”を読み終えております。特に、テキストのはじめにの部分には心底感動しました。テレビで放映されてない、素晴らしい部分がぎっしり詰まっていました。いつもより、テキストも分厚いですしね。熱量が凄まじいです。

以下、引用です(テキストp.6,7)。

〈SFとは何か–これに答えるのは「日本料理とは何か」「フランス料理とは何か」という問いに一言で答えるのが難しいのと同様に極めて難しい。どのレベルに焦点を合わせるかによって、いかようにも答えられるからです。(中略)…「“SF者”でない人に真にSFの感動が理解できるのか」という主旨の議論はありました(あります)。これは「真にその人がSFを読めるかどうか」は生得的に決まっている、わからない人は永遠にわからないのだ、という主張にも聞こえます。ですからこうした問いも含めて「SFとは何か」について論じるならば、それは「ぼくたちの人間性とは何か」という大切な問いに真正面から向き合い、考えることに等しい。〉

この部分の“SF”を、“メガネ”に置き換えても、“ヴィンテージメガネ”に置き換えてもそのまま通用します。要は、この時点で私にとって、おそらくみなさんにも他人事ではなくなっています。普段全く触れてこなかったSFを手掛かりに、自分自身を振り返る作業をすることになります。

さらに、以下引用です(テキストp.10)。

〈1961年、クラークはUNESCOが運営するカリンガ賞…記念スピーチでこう語りかけました。「(中略)…(SF作家は)読者に対して心の柔軟性を、変化への心構えと“ようこそ”という気持ちを−ひと言でいえば、適応性を促すのです」〉

店をやっていますと、適応性を促すということが、本当に難しいわけです。商売における市場のセグメントと対立して、気を抜けばこちらの投げ掛けが排他的になりがちです。適応の真逆とは言わなくても、適応ではない何か、そんな行為に陥りがちです。そしてそれは、本来の適応性を促すことの難しさに向かう以前の、前段階の問題な気もしてきます。いつも、そこで悶々と自信を喪失します。

例えばAとBが存在し、AをとればBが蔑ろに、BをとればAが蔑ろになってしまうようなジレンマに挟まれることなんて多々ありまして、と言いますか、皆さんありますよね何かしら。むしろ生きることはそのハザマでギュウギュウと毎日搾られることなんじゃないかなと思うんですけど、そういうことから逃避をしない為にSFを読んでみるということが、私にはとても新鮮で、久々に脳みその中がビシャビシャに楽しい汁でダクダクになっております。

そしてそれは、ちょうどこの前の数学の演奏会での「なれる」こととの親和性を感じておりまして、そこで紹介されていた宮沢賢治も読み始めました。なれると適応の微妙な差もありますが、やはり近いものを感じました。

ちなみにセロ弾きのゴーシュは中学生ぶりに読みましたが、こんなに良い話だったのかと仰天でした。多分あのときは噛んでないですね。字面を噛まずに飲んでました。

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