今度の日曜日は休みますzakki

19.02.22

先週お越しいただいたお客さんには、直接お伝えしておりましたが、次の日曜日は本当に休みます。日帰りで京都に行きます。ついに暇なので、行ってみたかった店に行こうと決心がつきました。自分も外に出てみようかなと。ちなみに眼鏡屋では無いです。後述に関連しますが、【良いメガネ】という大きすぎる概念を元に、大体争いが起こりますので。

暇なので、途中になっていた本も3冊ほどまとめて片付けました。その中から一冊。半年くらい読む手が止まっていましたが、なんとか読み終えることができました。

『考えるヒント3 小林秀雄著 文春文庫 2013年 p.275』

このページが掲載されている章は〈私の人生観〉でして、他の文庫で掲載もあります。その、写真とは別の文庫にて既に読んだことがありましたから、何となく気が乗らず、かと言って章ごと飛ばす気にもなれず。そうとは雖も、以前に「私の人生観」に遭遇したときには、まとめ以外は上手く納得出来ず、ただただ冗長に感じたという記憶だけ残っていて。億劫ながら、でも今度こそちゃんと真意を汲み取るぞ!みたいな気概はあって…。最終的には半年以上、今の今まで放置でした。

ときに億劫ではありますが、同じ本を読むことは割とオススメだったりします。記憶が定かではありませんがおそらく10年くらい前です。NHKの番組『視点・論点』で安藤忠雄さんが出ていた時に、番組中ひたすら「本は3回読みなさい」と仰っていて、建物の話をしないという衝撃的な回がありました。それ以来、ぼちぼち本を読み返す様になりました。

やっとのことで今回、〈私の人生観〉の章を再度読みましたが、おそらく納得出来た箇所が増えていた気がします。時間に任せる、何かしらの経験が理解に際して何とかしてくれることはあるみたいです。同じ本を時間を置いて読み返しますと、それをもろに実感出来ます。

写真は、このような文章になっています。以下、抜粋します。

“思想は抽象的な図式と変じ、大地に立つ足を失った。図式は、理解力という人間の一能力にしか応じる力を持たぬから、賛成と反対以外に何事も起こらぬ。これは一見まことに気楽な光景であるが、実は恐ろしい事が起っている。例えば、平和だとか、人道だとか、自由だとかという観念は、万人の望む普遍的な観念である。併し、それが単なる観念である限り、人々を沈黙させ共感させる力はない。だから、人々はそこから喋り始める。誰も彼もが合理的に喋っている積もりなのだが、もともと厳密に出来上がってはおらぬ定義から出発したのだから、曖昧な系が幾つも幾つも生ずる。つまり平和という観念は、遂に論戦を生まざるを得ない。そんな道を辿るという事が、一体、人間が思索をするという事なのか。例えば、ベエトオヴェンのシンフォニイは、彼の思索が実った思想とも言えましょうか。彼の思索とは、音という「物」の新しい秩序をどうして創り出そうかと苦心する具体的な技術である。彼のシンフォニイは、彼の技術と一体となった、音という実在の世界に関する彼の vision、彼の観を現す。聞くものはこれに共感し、共感はその人に平和を齎す。論争の出発点となる様な平和の観念など現してはいません。人々は彼のシンフォニイから、空論に向って出発する事は出来ない。それは、もうその先きのない、行き着く処に行き着いているのである。”

物に全部込めて、本当にそれで全てということと、読み取りました。ちょうど年末くらいからそんな事を考えておりまして、そして、そんな事を考えておりますと、あれこれブログに書くポテンシャルが無くなり、結果としてメガネだけひたすらアップしておりました。それこそが正しいのだろうなと、その実践をしておりました。今までの物を読み返すと、きっと恥ずかしいのだろうなと思いますので、それは読み返さず、ただブルバキの為に残しておいています。都合よく無かったことには出来ないですからね。

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