書いてるいま、新幹線です。
昨今は、自転車通勤になりました。音楽を聞く機会が減ってしまいました。今回、下北への移動で久々に2時間ほど手持ち無沙汰な時間が得られましたので、アイポッドで小林秀雄講演第2巻を聞いています。チャプター『「考える」ということ』が、さらりと身体に入る瞬間がありました。
他のヴィンテージメガネ店に通っている方の出入りが増えました。それはそれでありがとうございます。おそらく、大きな違いは、この、考えるということの違いだと思います。
考える、つまりは見ると言い換えても構わないと思います。それが観察ではなくて、講演の言葉を借りれば、交わることを意味しています。様々な要素、ラベル、観点、それらの消去を目指し、自分に取り入れることをしてみたい衝動が無いですかね。アノニマス自体が標語となりブランド化していく中で、それは非常に難しいことなんですけど、もし出来たら、そこにかなり純度の高い自己が顕在化するのでは無いかなと思っています。信ずることと考えることの同一化が、そこに成されます。何を信ずるか、自分自身です。
ちょっと前の「変態」にも通じますが、考える=観察する=見るという等式において、変態というシャッターは発生すると考えています。個人個人に容量がありますから、全部には交れ無いですしそれで良いんですけど、今日も散々言われるんだろうなと。その中で一人だけでも、別にブルバキの存在と交わる意思はあってもなくても構いません、持っていったメガネと交わろうとして下さる方がいらっしゃれば、今日はそれだけで救われるだろうなと予感がしております。