アーカイブ:11月2016

ラマヌジャン引き続き
雑記

16.11.05

ラマヌジャン数という数字があります。1729です。

ブルバキはURLの数字が1139です。1729にしたらよかったですね。先見があって。たまたまその時に時刻が11時39分だったので、理由はそれだけです。

この由来をお話したら、江頭的なやつ?と言われました。果たして2時50分が、江頭さんの芸名が決まった時刻かどうかは知らないですけど、なるほどなと。気づかなかったです。

江頭さんは、見えないところで相当努力をされている方なので、決め方が一緒なら嬉しいですね。

ラマヌジャン
雑記

16.11.05

おそらくどこかで、まだ公開中です。

「奇蹟がくれた数式」奇蹟がくれた数式の公式サイト

お店をやっている以上、土日に自分のお店以外に行くことを推奨するのは自分でもどうかと思いましたが、そろそろ公開が終わってしまうのではと危惧しましたのでご紹介。私もまだ見れていません…。休日のお出かけにどうぞ。

屋号がブルバキですからね。久々に数学ネタです。インドの天才数学者、ラマヌジャンの映画です。

時代としては、それこそ数学がブルバキによって構造の概念を手に入れ、整理される前です。映画は友情を主軸に描かれているようです。ゴリゴリの数学の映画では無さそうです。ラマヌジャンが直感から様々な定理を発見し、それをイギリスのハーディが厳密に証明していく様子も描かれているようす。いまの数学に慣れている私たちからは想像も出来ないくらい大変だったのでしょうね。無限とか集合とか、大荒れの時代だったと記憶しています。間違いだったらすみません。

論理だけではたどり着けない地点があります。小林秀雄さんも

「自然科学(論理)は構造の分析でしかない。直覚から分析へは至るが、分析から直覚へは至らない。」

と、講演集で仰っておりました。岡潔さんとの対談、人間の建設では、数学者の岡さんも似たようなことを仰っていました。仏教的な、非思慮による発見でしか到達出来ないという予感がするみたいです。非連続的な、歩き続けるだけではなく跳躍が必要な瞬間があるのでしょう。分析がダメということではありません。どちらも要りますが、双方向では無いということです。

話は変わりまして。衝動買いという行為があります。一般には悪とか失敗と捉えらえる行為です。ですが、果たしてそうでしょうか?衝動買いは、感性でしかない、直覚による買い物であります。自己の感性が剥き出しの買い物です。昨今の情報ドバドバの状況で、買い物に限らずここまで分析を排除した決定行為はあるのか?と、考えますと、少ないのかなと思われます。とりあえずスマホで調べちゃいますもんね。

やはり衝動買いの後の、分析の仕方がいかんでしょうね。そこが混同され、悪と認識されているのでしょう。買い物でいう分析とは、おおよそ他者・他物との比較と同意義なので。そこでしまったと思っても、その剥き出しの感性がした行為を自ら引き受けることで、予期せぬ発展があるかもしれません。使い方を追求するか、自分の感性を醸成させて、物を違ったように見えるようにするか。そこがメガネでも何でも醍醐味だと思います。

いまは買い物出来るような状況でも無いのですが、先日お客さんとお話をしていまして。つらつらとここまで偉そうに書いている自分自身、衝動買いが減ったなと、お話を聞きながら反省した記憶がありました。

最終的に映画のことがすっ飛びましたが、どうか良い休日をお過ごしください。

理性と感性について
雑記

16.11.04

NHK ヨーコさんの“言葉”

ヨーコさんの“言葉” NHKのページ

5分番組です。木曜日の22時45分から。Eテレにて。初めて観ました。たまたまです。テレビによる徹底的な受動も、たまには悪く無いと思います。

楽しい感じの、ちょっとした自虐込みのエッセイ番組です。ただ、ところどころにピリッとする表現がありました。自分では上手く言葉で表現できなくて、脳の中がむず痒くなるようなことでも、軽やかに表現されていて、感動しました。おそらく来週も観ます。

「…理性は矛盾を許さない。しかし感性は矛盾のマグマだ。…」

マグマだから、許す許さないの話では対処出来ない訳ですね。納得。

 

ちなみに
目のことレンズのこと

16.11.03

医学的な視力のマックス値は、視力2.5です。これは、視力の定義と、網膜上の視細胞の太さ(隣合う間隔)から算出されます。それ故、おおよそ視力表は2.0までです。いま店の壁にあるのは、視力2.5の欄は無いです。

アフリカの方ですと、視力5.0とかいます。どの定義を用いるか?とかあれこれあります。手が右左向いているとかではなくて、切れ目の認知が、現代の視力の大まかな定義なので、測定差異のようなものはあります。ただ、心理的な何か、現代人が眠ってしまっている野性の何かがあるのかもしれません。視力2.5付近かそれ以上あるのは間違い無さそうです。

獲物を探しに遠くに視線を持っていくことが多いと思いますので、それが彼らにとっての快適な視力なのでしょう。そう考えますと、現代日本人のある程度の近視は、あらゆるものが手元で完結出来てしまう環境への適応とも捉えられます。

視力についての話
目のことレンズのこと

16.11.03

ちょうど、ヤフーニュースで視力についての話が出ていました。

「視力1.5で体調不良!?疲れ目の原因は“見えすぎ”にあった〈週刊朝日〉」

ヤフーの記事のページ

難しくあれこれ書いてあります。絶対的な正しさが無い世界なので断定は出来ませんが、メガネ屋として回答は無いといけませんね。以下に記します。

記事のはじめの方は、考え方が一致しています。視力1.5というのは、あくまで遠く(外の木々とか)がくっきり見やすいのであって、近くは見づらいです。歳をとるほど見づらいです。

例えば、20歳のときの目の瞬発的なパワーは、単位は言いませんが10くらいです。40センチの距離にある物を見ようとすると、2.5のパワーを使います。全体の25%です。へっちゃらですよね。

40歳のときのパワーは、平均4.5です。同じ40センチ前方にあるものを見るときには、全体の56%の力を使います。力んでいる実感はあるかもしれませんが、まだ余裕です。

50歳のときの目のパワーの平均は2.5です。つまり100%の力が必要です。毎回、手元40センチを見るのに、全力応戦な訳です。そりゃ疲れます。パワーが回復しきらない、パワーゲージの少ない夕方以降は、パワー不足で手元が見えなくなる訳です。

特に日本は室内等々、40センチ近方とは言わないまでも1メートル〜2メートルくらいの距離で物を見ることが多いと思います。視力1.5からすると、最低でもパワー1以上は入りっぱなしです。先の例で、20歳としても、四六時中10%位の力が入りっぱなしというのは、じわじわ疲れることもあるでしょうね。無意識に身体に支障が出るかも“しれない”というのは、考えられます。自律神経云々と記事に書いてありますが、簡単にはこんな感じで思って頂いて、大きく間違っていないです。筋肉の使いっぱなし。生活の中で、常に力んでいる目が視力1.5です。

ただそこで、遠近両用に直ぐ移行するというのは、100%賛同しかねるところもあります。視力1.5は、よっぽど要らない数値なのかな、というのは一致しています。全体の視力を落とせばいいのかなという考えです。もちろん年齢よりけりです。

困ったことに視力を落とすと、眼位という視力ではない要素が関連してきますので、単純に視力を落として筋肉を弛緩させれば良いということでもありません。この辺りは検眼になった際にお話します。

小学生で勉強に集中出来ない理由が、視力1.5くらいだから(つまり遠視)というのは、業界の中ではよく聞く事例です。机に向かって字を見続けるのがしんどいのでしょうね。

視力の“数値”が高いということが、必ずしも目の良さとは限らないということのみ覚えて下されば幸いです。

豊橋観光案内
雑記

16.11.02

豊橋市美術博物館は、一回の会期期間が短い代わりに、あれこれ楽しそうな企画を次からつぎへ行なっています。ぜひ豊橋へお越しください。

筆舌に尽くしがたい、良い何かがフワッと心に立ち込めました。たまたま、自分と波長があったのでしょうね。まず美しいという感情が心にきて、そのあとに意味が追ってくる感じです。素人なので、そもそもそこまで詳細に意味を汲み取れる訳ではありませんけど、そんな感じです。

撮影禁止でして久々の無音の美術館でした。視覚に集中すると、絵から音や香りや動きが湧き起こるので、たまには共感を諦めて鑑賞するというのも乙だなと改めて感じます。

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