アーカイブ:3月2019

保護メガネ
ヴィンテージのメガネ

19.03.08

今年の花粉はいかんですね。今まで特に何もでしたが、今年は目が痒いです。

普通に、花粉用メガネとして紹介します。オプチルではありませんが、インジェクションで作られたフレームです。意外に、つるっと全体のバフがけは可能でした。

左右それぞれ、貼り合わせて中に芯が入っています。圧着が弱かったのか、左右両方、貼り合わせに若干の浮きが見られます。

もともとは何からの保護に用いられていたか不明ですが、単純にこれを掛けてmtbとかの自転車に乗っていたらカッコいいと思います。

まだ上映するっぽいです
雑記

19.03.08

例の映画、ブルバキから徒歩3分くらいの距離にある名演小劇場で見ることができます。おそらく、インスタで載せれば商品のメガネよりも、修理に3時間費やした渾身の電動pezよりも、いいねを稼ぐのは間違いないので、ブログにて。

ルーペを頂いたことが一度きり、服を自分で購入したことがありませんから、そんな自分が見たところでどうかなと思いつつ鑑賞してきました。

細かいことはよく分かりませんが、とりあえずCAZALを掛けて行って正解だなと感じました。中・高と制服着用の学校に通っていました。今も昔も変わらずイケてないグループでして、学生の時に制服を着崩すという通過儀礼を通りませんでした。いまさら、それに近い心情を味わうことが出来ました。

映画の中で終わりがけ、マルタンは本当は楽しくなかったんじゃ無いかなというような推測がなされます。それこそ息を吸うように創造をしてきた人にも、そんな瞬間が訪れるのだなと呆気にとられてしまいました。

カタカナでクリエイティブといえば、何となくカッコいいくらいの印象しか抱いておりませんでしたが、もう少し恐ろしい行為なのかもしれません。行為に取り憑かれる、取り込まれる寸前までコントロールして自身を持っていかないといかんのでしょうね。少なくとも楽しい、楽しくないを超えてはいそうです。

そして、名演小劇場さんがすごいのは、同時期にアール・ブリュット関連の映画を2作上映するということで、創造について一層見識なのか理解なのかが深まるようになっていることですね。「描きたい、が止まらない」の方は、都合上、営業時間を縮めて観に行かないといけないので、困ってしまいました。

60年代の
ヴィンテージのメガネ

19.03.05

この辺りの年代のイギリスのフレームは、大体ブリッジが太くて上についています。ミスターインクレディブルのような、覆面感がでます。ほかにパッと思いつくのがドイツのローデンストックのロッコです。あれも確かこんな感じのラインですから、シュッとした感じがヨーロッパで流行ったのでしょうね。そして、つい先日知りましたが、シュッとしているというのは方言なんですね。シュッとしているはシュッとしていることをさすと育ちましたので、他の表現が見当たりません。衝撃でした。

カトラーの、キングスマンのメガネが継続して人気です。持ち込みもありました。完全なる一致を目指さなければ、この辺りの年代のフレームであれば事足りると思いますし、レンズが小さく天地も浅いので掛けやすいかなとも思います。あっちは、レンズサイズと醸す雰囲気がティアドロップ系統気味です。

この辺りのフレームでも十分に、そして同等にシュッとした上品さを付加するはずです。

停滞の理由
無垢のメガネ(925silver,サンプラチナ,木)

19.03.05

ブリッジは、レンズとレンズを繋いでこそ、それこそ金属の線からブリッジへと昇華します。忘れていました。

それでその出来た物を、どの高さに取り付けるべきなのか…。そういう問題が生まれますよね。難しすぎる。考えられる範囲の幅はレンズの天地分、とりあえず刻みは1ミリピッチというのはやや言い過ぎにしても、それなりの設置可能性が見え始めます。サンプルを作る予算も工場の空きも無いので、決め切らないといけません。お腹痛い。

メガネにしても何にしても、専門のデザイナーというのは怪物ですね。素人は、ブリッジ1つの設置箇所で昨晩から悩んだ訳ですから、ありとあらゆる箇所の造詣を気にし出したら、私ならキーって人格が崩壊しそうです。

定義に戻りまして、私が出来ることは、眼鏡士として光学的な要素の付加とか決定ですから、そのようにしました。フレームとしての美しさではなく、メガネとしての美しさであって、レンズを入れて掛けた姿と不可分です。それはコレクターの観点からのデザインでは到達し難いと思うからです。物が好きな私としては、非常に苦しい選択でした。

停滞
雑記

19.03.05

色々、製作でキリキリしているせいか、ブログやらに逃げる機会が増えています。商品だけ載せとくことがお店としての正義と分かりつつ、冗長な日報が続いております。早速守れておりません。

作為とかその周辺の話になりました。日曜日に何だかんだ5時間くらいはそれについての対話になりましたから、自分の為にも反芻しようと思っています。フレームの製作に食い込みつつあるということで、一度は考えるべきことかなと感じてはいました。

無作為がウリの物が増えた気がします。私が初めて、それがストロングポイントになっているのかと感心した機会は、2年くらい前の服屋のイベントでした。特別展示・販売の催事でして、障がい者支援施設で作られた服やカバンを見たときでした。色彩が豊かで、構図や構成が爆発的で非常に力強い印象が記憶に残っております。

その会場で、頻りに耳にしたのが「無作為で良い」という賞賛でした。販売する方も見る方も、それらないし作り手を無垢とし、現実に汚されていないからこそ生まれる「無作為」の産物として眺めておりました。

ただ、私に関して言いますと、同じように感動はしました。その上で、無作為かどうかは分からないなと思った訳です。健常者(この境界の用意の仕方が上手くいかない、問題があるのは承知ですが、今のところ思いつかないので勘弁してください)から、言語(思索)を通じてそれが分析出来ない、会話を通して確認出来ないというだけであって、綺麗に描いてやろうとか、生きている楽しさを色彩で表現しようとか、言語化されていない何かが、製作者の脳にあるかもしれません。ノーマライゼーションの観点から、同じ人間として対等にお付き合いをするのであれば、作為があってそれを形にしてやろうと頑張った結果と認識した方が自然な気がしました。むしろ相手を無垢なものと決めつけますと、往々にしてプラスのシャッターが下りる気がしております。

近い体験を、私自身の記憶から。幼稚園の年少か年中だと思います。母親の似顔絵を描くということで、緑のクレヨン一色で顔面を描いた記憶が、朧げにあります。なぜ覚えているのか。それは、その後に幼稚園のみんなでそれぞれ飾ったときに、おそらく塾で絵の教室に通っている子の絵と比較して、とても恥ずかしくなった事を憶えているからです。輪郭を肌色で、口を赤で、目を黒で、、、あーそういう事かなるほどね的な、言語化されていない何かを感じて、恥ずかしくなったわけです。正確には、その場で恥ずかしさのマックスを迎えたというよりも、迎えに来てくれた親に絵を渡すことが非常に嫌になった記憶があります。

今となっては、あのときの私に“上手く描いてやろう、綺麗に描いてやろう、正確に描いてやろう!”というような作為があったのかは判然としません。それ以前に、そこまで思考と言語が整備されていませんから、意識に立ち込めていないと考えられます。

ほぼ30年前のことに対しての推測になります。私が幼稚園生のときは、色と言えば緑でした。緑色が大好きでした。服に目覚めて紺色が好きになるまで、一番は緑色でした。ですから、好きな母親を、どうせ描くなら自分の好きな色で描いた方が好き同士でいいなぁ、というような、言語化される前のレベルで脳内で結合した何かがあったのかもしれません。言語を用いて、意識として立ち込めていなかっただけで、作為は存在したと考えられなくはありません。

要は、意識にあるか無いかで作為的かどうかはイマイチ判断がつかない訳です。そうなりますと、考えていなくても作為が含まれることがあるわけです。よって無作為というものは、かなり得難く難しい到達点と言えるのでは無いでしょうか。親しみがある言い方としては、悟りという言葉と同値かもしれません。それは、もはや生きているうちに実現出来るかどうかも定かではありません。

そこで、昨今の無作為たちはどのように捉え直したら良いのか?という話になります。これが日曜日の対話の核でした。前段では無作為というのは、作為を消し去ろうとする努力に、垣間見える機会があるという流れでした。これと比較して考えてみます。

極端に、例えばいまパッと作った物と、極致的な無作為とどう区別するか。物が出来るまでの、製作の姿勢に違いがありそうです。パッと作った物は、製作に臨む姿勢を想像するに、どうしても消えない作為を、それでも尚消し去ろうという努力では無くて、見なかったことにして蓋をしているように思われます。調べてみると、法律のことばで「不作為」という語がありました。

不作為:現実の事実・事象に対して積極的に働きかける行動をとらず、それらの事実・事象を放置すること。(ウェブより抜粋 世界大百科事典 第2版)

八割くらい、しっくりくるような言葉が見つかりました。だいたい、言い得ているような気がします。追求の放置です。つまり現在は、無作為と不作為がごっちゃになって使われている状況なのでして、消去せず置去りにすることが増えたということになります。

ならばもう一度、作為が含まれる物、無作為な物、そして不作為な物なのかを自分なりに選別し、吟味することが迫られます。もちろん、上手く分類出来ない物も存在するでしょう。しかしそれは、最終的に不作為を検出し排除することを目指しておりません。不作為でも自分なりに良さが見つけられるなら、それで良しということだと考えています。例えば表出する側が、それを知らずに全て無作為と称しているだけかもしれません。また、何事も緊張と弛緩のバランスと考えますと、不作為な物こそ自分にとって大事となる瞬間が、人生の其処彼処にあると思うからです。

ゴツい、四角い
ヴィンテージのメガネ

19.03.03

おそらく、オシャレが好きな方との接客で、導入のクラッチ合わせの部分で伺うのが「丸くて細いの」が欲しいという要望です。もちろんそれらもあるんですけど、それこそ他所にも、名古屋中、愛知県内、いまは沢山あったりします。そこからハミ出て肩身が狭そうなゾーンをご紹介です。

70年代のセル枠です。オプチル素材を用いたフレームのような質量の演出ですが、これはアセテートです。オプチルで作った時と比べるとやや重くなるわけですが、鼻盛り可能でフィッティングがしやすいので、しっかり掛けられるようにこちら側が手を施せる点が良しです。

何と言ってもブリッジが醍醐味です。

それこそ先ほどの話に繋がりますが、おしゃれ・おしゃれではないの、どちらでも無いと感じます。そもそもブルバキのヴィンテージメガネは、そんな感じのものがメインです。そうなりますと、メガネを掛けるに際して服や小物、アレコレの組み合わせも緻密ではなくていいやって気分になってきます。そこにもう一度、オシャレに目覚め始めたときのような楽しさが芽生える気がしております。実際には、それをもう一度ファッションとして形式化したのがグッチのように見受けられます。シャツ、ジャケット類のカチッとした格好にゴツいこのようなメガネを合わせるということも、ただの70年代のコスプレや違和感では無しにファッションに迎え入れられた感じがします。ただ、おそらく名古屋ではその雰囲気はありませんから、この類のメガネをかけることによる開放感、自由度は失われていないように思われます。

余談ですが、最近面白いなと感じたのは、ヴェトモンの、オークリーのサングラスですね。トゲのついた。ものすごく実物を拝みたいと思っています。

メガネをプロダクトとして捉えたときに、一番開発が盛んでハイテクでメカっぽくて、つまりは物として純粋にカッコいいのは(個人的に感じているのは)スポーツグラスだったりします。そのカッコ良さをファッションに組み込んだときに、全体がファッションとしてギリギリカッコ良いのかどうかみたいなことを提示していて、感動しました。余裕があるのならば、買って店で飾りたい気分です。

まだ途中ですが
雑記

19.03.03

暇と退屈の倫理学から、次の本に読み進めております。確定申告云々が終わり、ようやく先週から読みはじめました。木曜日は熱で1日ダメにしてしまったので、まだ半分ほどしか読めていません。

今の時点でひとつ、感想とか解説じみたことなぞとも思いましたが、おこがましくて書くことも出来ません。読んでいて自分は、ちゃんとわかってんのかなー??という曖昧さの連続です。とりあえず現段階での気分としましては、

「あんまり深入りすると、販売とか接客のあれこれが全部気になって、身動き取れない」

という感じです。意志なのか選択なのかみたいな話題周辺も、相当ブルバキ自身が揺らぐ内容でした。接客とは、買うとは、選び取るとは、勧めるとは、、、。んーーー。

最後に、あの倫理学のような救いまではいかなくとも、実践における指針みたいなものが垣間見えてくるのでしょうか。それが楽しみで、三章あたりでペースダウンしたものの、四章から再び相性が良くなったのか、もりもり読み進めております。

今の枠組みの中でスパッと割振れる、割振れないとは話が逸れるかもしれませんが、そういうことは、日々感じます。

物でよく言われるのは、「物の価値は、お金ではない」みたいなことでしょうか。高い物を指して、高ければ良いものという訳ではないことを述べるときに、よく言われている気がします。ブランド物に関しても、同じように語られ、揶揄される傾向にあると思います。

ただし、その時点で実際は、物をお金のフィルターを通して見ている訳ですから、両者とも大きな差は無いように思われる訳です。では、物を見るときに、(高い・安い)と、(良い・悪い)の組み合わせで見ることから解脱するにはどうすれば良いのか?みたいなことを考えています。

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