三島由紀夫ときくと、肉体的にもそうなんでしょうけど精神的にもマッチョな感じがして、そんなに鍛えたら壊れちゃうなぁって思っていたんで避けていました。それに、古本屋に足を運ぶとたまに三島由紀夫コーナーがあって、上級者向けみたいな雰囲気が出ています。それが刷り込まれて、初心者だしお断りかなぁみたいな、妙なハードルの高さを感じて避けていました。
最近のお決まりです。いつものあの番組、100分で名著で「めっちゃ面白いな」と感じてとりあえず買いました。5月は三島由紀夫の金閣寺です。番組で結末を知る前に一旦読み終えておきたいと感じて、木曜日を費やして読み終えました。三島由紀夫は、葉隠入門しか読んだことが無いので、小説は初めてです。
とりあえず政治的なことはよう分からんですか、美とか絶対的なものとかをある程度そのまま字面通りに読んでみました。ただ、あまりにもまっすぐ「金閣寺」と読むと、やや滑稽な気もしてきましたし、100分で名著の2回分の放送を見てある程度予備知識がある状態でしたから、金閣寺を例えば私で言えば眼鏡に置き換えてみたりとか、そんな事をしながら読んでみますと、確かにこれはなんだか凄い小説だなという感じがしてきます。
おちょやんで、天海天海もめっちゃ悲劇的になると「(むしろこれこそ本物の)喜劇や!」みたいなことを言いますし、いまやってる連続ドラマの「コントが始まる」も、それに近いのかなと感じます。本人達は必死で、人生の大きな決断が迫られていて、話の核はグループの解散という悲劇なんでしょうけど、側からみたら喜劇ですね。もちろんそういうドラマ構成なんでしょうけど、あれ面白くてハマりますね。
同じNHKの番組、達人達という対談番組で宮島達男と大川豊の対談の回がありました。気になって大川興業を調べてみると、「一線を越えたものはすべてお笑いだ!」と書いてあります。本当にそうなのかもしれません。基本は、人ごととして笑い飛ばせるのかもしれませんね。では、何が自分では笑い飛ばせないのか、下手するとそれがもとに悲劇になりうるのか、溝口(小説の主人公)にとっての金閣寺のような存在になってしまうのか。何で私にとっては金閣寺じゃなくて眼鏡だったんだっけ?みたいなことを、久しぶりに振り返ってみようかなと思いました。
小説内で溝口(主人公)は、女性の裸体を見た瞬間にブワっと金閣寺に変貌する体験をします。それでいうと私は、幸い一回もブワっと眼鏡に変換された記憶が無いです。まだまだ修行が足りんのか、眼鏡への没入が足りないのか、悲劇に足を踏み入れていないのかどうなんでしょうね。
抜き出すだけでじんわりする箇所も多々でした。個人的には「私の感情はいつも間に合わない。」というのは、凄いわぁってなりました。