近況zakki

20.03.07

そういえば初めてイケアに行って、かなりはしゃいでしまったことをここに書いていないかもしれません。巨大なシステムが眼前に展開されている様を、初めてこの目で捉えた気がします。倉庫は本当に綺麗でした。モンゴルで地平線を見なくても、人間の小ささを体感できました。

話は変わって、写真はユニクロの雑誌の第2号です。これもとても良かったです。巨大資本がますます強すぎて、ニッチな零細としては参っちゃう毎日です。ますます貧乏暇なしです。

ただ、自分が銀無垢やらヴィンテージやら販売しているからといって、検眼等々にもこだわっているからといって、あれら巨大なものたちを嫌いになったかと言われると、そうでも無かったりします。前述の通り、イケアでは嬉ション状態でした。創業時から比べますと、例えば量販のメガネに対しての考えも相当変わりました。それで良いってわけでも無いですし、それだけで結構というわけでも無いですし、むしろニッチ以外駄目という感情も無くなりました。

ブルバキも4年経ちましたが、意図して角を落とそうとした覚えはないです。では、なぜそうなっちゃったんでしょうね。ついに俺は、巨大資本に去勢された資本主義の犬になっちまったのか、、、そんなことを考えながら1月と2月と過ごしておりましたところ、ついに、心の決着がつきました。それが先週の土曜日のことです。久々の、数学の演奏会への参加です。

数学の演奏会というお題目と思っていましたら、大人の為の数学講座と変わっていましたね。何だかんだ年一回くらい聴講しております。ちなみに、時間オーバーして4時間くらい演奏はありました。その間、数式はほとんど出てきません。ですから、もちろん演算は皆無です。実態をよく知らない人は、数学なのに!と、なんだか不気味でゾクゾクしますよね。だからこその個人的当たり回でした。演算は、得意な人や好きな人がやれば良いですからね。

ここでも頻出の岡潔は数学を情緒とし、情緒を、目に見えない対象に対しておもいを馳せる行為と定義しておりました。今回は、別の方の別の数学の広い定義から話をスタートしましたが、似たような感じで「(不可解なものに対して)なれる」行為として言い換えていました。なるほどなるほど、不可解な未知のものと付き合う行為だと。

講演では色々あって、内容がアイデンティティ周辺になったときに、不可解との付き合い方が問題として浮かび上がってきます。その色々は、まず、ブルバキという凡才では書ききれないのと、お金払って聞いてみて下さいというので飛ばします。

不可解とは、私が理解できない、理解が及んでいないものたちです。ここで気になるのは、その理解という言葉の指す行為です。つい先程は、広義の数学から不可解と「なれる」と書きました。この違いが鍵でした。

理解というのは、しばしば暴力的でもあります。自己を中心とした、シャッターを降ろす行為に通ずるときもあります。要は、理解が指す行為というのは、自他の境界をハッキリさせる行為ということです。自分の内と外が生まれます。

その理解が中心で生活すれば、自分以外の、つまりは不可解な外側に対して、常にシャッターを降ろすかどうかの判断の連続です。そして、降ろせば降ろすほど、講演では「純粋で清潔などこか」と表現されていましたが、その領域がはっきりとします。それももちろん良いはずでしょうけど、その残った領域のサイズが大事で、生存できるほどの広さを備えているかどうか、そこでしょうね。

そうではなくて、私は、私自身こそが(世界にとって)不可解な訪問者というふうに、スタートの認識を捉え直すとどうでしょうか。そもそも、他者からしたら私だって不可解な一員でしょう。自分がシャッターを降ろす云々の前に、そもそも向こうから先に降ろされているかもしれません。勝手に理解されまくって、自分の領域を確保出来ないかもしれないと想像すると、やや恐ろしく感じます。

でも実際は、そうはならないですよね。理解し合わなくても、知らないうちに理解されまくっていても、覆さなくてそのままうまく付き合うことだって出来ます。むしろそういう機会の方が多い気もしてきます。適当に表面だけで付き合っているというよりも、そこに配慮があって、何となく腑に落とすことの連発でお互いに生きている感じです。

後者であれば、自己に固執することなく活動が出来、境界は曖昧で広がりがあるように見えます。ただ、薄く広がりすぎて溶けて消える可能性もあって、そのときはアイデンティティの確保が問題になります。ただ基本となる、領域が膨らもうとする力は魅力的です。

ここでようやく、冒頭のイケアとユニクロに話は戻ります。まさにこの二つの例は、なれようとする行為だったんだなと、いまさら納得しました。素材とか産地とか、デザインとか他もアレコレ、ニッチに局所的に突き詰めたものに対しては各々劣るかもしれませんが、彼らはその一点で勝つことは望んでいないでしょうし、そのニッチになりたいわけでもありません。もともとのアイデンティティを確保しながら、なれてみようとしている、真似をしながら学びつづける姿勢を感じます。それを実際に身銭を切って行う凄さは、商売を始めると特に分かります。

今回、講演を聞いてより自覚的になりましたが、ヴィンテージ眼鏡の世界なんて、まんま当てはまります。特に、理解の方にです。

最初に、あの辺りが至高と言っちゃいましたからね。まさに俺か俺以外、内と外の世界であって、純粋で清潔な場所を明確に示してしまいました。そうなりますと、維持できるか、縮小して点になるか、ジワリと汚れていくか、どうなるんでしょうね。経営的には、マーケットをセグメントして云々し、狭く深く攻めるという定石がニッチな商売にはありますが、それと矛盾する部分もありまして、ここで経営的には苦悶と葛藤です。

話を戻しまして。実際、その領域の明瞭さについては、早い段階で危機感を感じておりました。むしろブルバキを始める前からです。ですからブルバキはスタート時から、「それ以外」のラインナップをメインで販売を続けています。そんなことを続けていましたら、次第にその感覚は自己の他の感覚にも伝播していましたね。やはり、物の力は凄いなと感じます。物の所有は侮れないです。

去勢されたというよりも、そうしないと生き残れないと何となく思っていたからそうなったという感じです。ドライに言えば、生き残るための生存戦略でしたね。また何年かしたら変化していそうで、それはそれで楽しみではあります。

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