例えば、何がおしゃれで、なぜおしゃれで、おしゃれとおしゃれでないことの境界はどこ?みたいなことを考えると、とりとめもなくなります。そもそも境界はあるのか無いのか。
哲学の言葉で、言語ゲームというものがあります。ヴィトゲンシュタインという哲学者が提唱した概念です。手元にある本によると、
“規則(ルール)に従った、人びとのふるまい”
だそうです。言語ゲームをここで持ち出した意味が分かりにくいので、さらに本の例えを引っ張り出します。
なぜ机を、私たちは机として理解出来るのでしょうか?机を椅子と間違えて認識することは無いのでしょうか?言語ゲームでは、
“机という言葉を使う言語ゲームがあって、見ているうちに次第に分かる”
だそうです??机を分かっているひとに何台も持って来てもらい、見ているうちに何となく机の机感を掴む。また、みんなが机を机として扱っているふるまいを見て、机の机性を感じ取るという感じですかね。世界中に存在する限りなく大きな数の机を全て見なくとも、数個で机を机として認識する能力が、人間には備わっているというわけです。
前振りが長すぎましたが、おしゃれも、見ていれば分かるが定義は出来かねるということですね。言語ゲーム的に。
それを踏まえて最近感じることは、
(ラルフローレンのキャップに、銀色の丸メガネの組み合わせをよく見かけますが、ダサいをおしゃれに反転した結果でしょうか?ならば、より突き抜けてティアドロップの選択肢は?)
(服も生活環境も違うのに、多くのおしゃれを楽しんでいる方がレトロなメガネをしている。その形はウェリントン、ボストン、ラウンドでほぼ一致している。他の余地は一緒に考えられないか?)
等々ですね。おしゃれの言語ゲームに当てはまるメガネの幅が狭まったのかなと。ファッションとくっついた感じのする昨今のメガネ界ですが、ちょっと従属的な狭窄の気配も感じております。
もちろん、ふるまいから逸脱してもダメでしょうし、果たして、ふるまいからちょっと逸れることのちょっととは、一体どれくらいのさじ加減か?という話にもなります。
お店では、もちろんデザインを気に入って頂き、それを躊躇なくかけてもらえれば嬉しいです。ただそれなりに激しいデザイン・カラーだったりして、上記のようにふるまいからの距離が離れると不安も生じるでしょう。それを、周りのひとと話しあって勇気を得て拭い去るのか、メガネの選択肢を変え距離を縮めるのか、着る服を変え全体像で良しとするのか、会う人を変えるのか、いっそのことふるまいの一致から決別するのか分かりませんが、メガネからスタートして、あれこれ思いを馳せることに面白みを感じて頂ければ幸いです。ブルバキとしては、ふるまいから決別するのも悪くないと思います。