ものすごくベタに、映画「君の名は。」を見ました。確かに、綺麗な映像でした。特筆すべきはツヤ感と、光の透明感ですね。良かったです。
タイムリープ(時間跳躍)が仕掛けとしてあって、それに関してあれこれ見た人同士で議論がなされていると思います。
一つ、全てが上手く説明いかないのは、物理学的な時間解釈が完璧に時間を説明し尽くせないからでしょうね。一本の線で表現する「過去・現在・未来」のアレです。
ベルグソンという偉人がいます。1900年ごろに活躍した哲学者です。自然科学が世界を変え始めたときに、それでもなお、自然科学では解析し得ないものは何かを探求し、自然科学に抵抗しました。人間性みたいなものが、科学で全て説明出来るわけないだろうという感じです。時間もそのテーマの1つ。
ニュートン以降、時間は一本の線で表されるとされてきました。アインシュタインの誕生で、時間と空間が同一と見なされ「時空」と扱われるようになりましたが、概ね変わりはありません。私たちは、時間を左から右に流れる直線として想起します。
ベルグソンは、そういった時間の解釈を知りつつも、独自の時間論を提起します。それは、単位を持たず、互いに並列可能でない、直線ではなく融け合った時間です。つまり、一人ひとりの人生と切り離せない、融け合って後と先を区別できない時間です。純粋持続と言います。
確かに、自然科学は社会に大きな影響を及ぼしています。時計に従えば、みんなが同じタイミングで集まることが出来るので便利です。ですが、便利で有用だからと言ってそれが本質・本来の在り方とは限らないのでは無いでしょうか?
時間から飛躍させて。例えば目の前に、異なる質のメガネが2本あります。ただそれは、質の違うメガネが2本あるというだけなんです。さらに、例えば1000円と10000円だったとします。でもそれは、2本のメガネを見る、さらにそこから1本を選ぶという際に、本当は関係のないことかもしれません。もちろん、買う際には社会で決められているステップを踏まなくてはいけないので、支払額の差はあります。ブルバキも、もちろん価格の差はあります。ですが眼前には、あくまで質の違うメガネが2本あって、それは価格が10倍違うから、他方より10倍良し悪しということとは、別の話であるという考えも出来るわけです。
ものすごく長くなりました。要するに、理想論ですが、モノのあらゆる要素を数値化して、数値であるが故に比較が出来ると思い込んでいるだけなのかもしれません。そうではなく、あくまで質の違うそれぞれが眼前にただ在るという考えもありますよということです。
自分がそうでした。数値とか言語化された要素の多さで比較をしがちな人間でした。ただ、質に集中するようになって、惹かれる方を選べるようになりました。比較して良し悪しではなく、それがどう良いのか?に目が向きやすくなったという感じです。そうすると、予期せぬ良いものに出会える機会が増えて楽しいわけです。