前も書いたことかもしれません。
結局、わたしには玉露の文化は根付かず終わりました。ただ、夏は必ず水出しの緑茶を用意するようになりました。それなら面倒くさくないですし、水出しで何かしらというのは甘くてすっきりしていて良いもんですね。今年もそろそろ常備しようかなと思っています。
それであと、道具を使うことで分かってきたこともありまして、冒頭の写真でいえば引っ掻いて削いだ形跡があります。それに対して一般的に言われていることや何やらがあるのは知ってはいるんですけど、分かっていなかったと言いますか何と言いますか。情で納得出来ていなかったわけなんですが、それがようやく、使いながら親しむことで分かってきた気がします。
完璧に綺麗なんですよね。土じゃないんじゃ無いかって一瞬思わせるくらいに滑らかで。そうなると飾りは足せない気がしてきて、均一で静謐さを壊すことに申し訳なさを感じながら、ちょっと崩すしか出来なさそうですよね。使うと分かりますが、これに飾りがあったら使いにくいですし、洗いにくいですし、道具としての完璧さも損なわれてしまいます。
本当の制作者の心情は聞いたことありませんが、例えば意欲的に崩すことで土の表情の豊かさを表現したと言えそうですし、消極的な感じでちょっと崩させてもらうしかやることがありませんとも言えそうです。物が人間を超えてしまって主従が逆転した結果、させて頂く精神がそこに垣間見れた気がしました。それでようやく納得に辿り着けました。
ちょっと前に載せた、たまたま組み合わさったシャーリング加工と手彫り装飾が共存したメガネも、この体験が無ければ良しと思えていなかったかもしれません。