カテゴリー:雑記

放置
雑記

20.04.18

勝新の座頭市を観ました。BSの録画だった気がします。

それなりに真剣に観たつもりが、鴈龍太郎や内田裕也、陣内孝則らのそれぞれの役どころを捉えられなかった所為で、ほとんど内容はちんぷんかんぷんだったんですけど、最後のチャンバラシーンは迫力があって、真・三国無双みたいだなと懐かしく感じました。勝新は確かにカッコ良いですね。

最近のマイブームは、映画を見る前に、前評判やフライヤーを見ないことと、見終わったあとにウィキペディアや映画情報サイト等で調べないことです。見終わっても分からないまま放っておきます。最初は調べたい欲がむくむく湧いて仕方が無かったんですけど、いまは慣れました。何でもかんでも自分で調べない自主練をしております。

(営業再開まで、あと(未定)日)

絶賛休業中
雑記

20.04.17

昨日、愛知県も休んでね的なアナウンスが出ましたね。相変わらず、私の見逃しかもしれませんが、眼鏡店が要請の対象なのか対象外なのか、カテゴリーに分けられていなくて、根本から忘れ去られようとしているのか、そっちに危機感を覚えました。東京のときに、理容店の振り分け問題はニュースになったのに…。

半医半商ですから、そもそもの存在が曖昧ですからね。自分で決めろって話なんだなということで、とりあえず何かが給付されようがされまいが休業中です。なんとなく、昨日のあれこれを鑑みて、5月6日まで休もうかなという心づもりです。

休業しようと思った理由は沢山あるんですけど、もちろん怖いなぁとか医療に迷惑かけちゃかんなとかあります。人口に対しての罹患数や、小売規模から休まなくてもいいかなぁとも考えました。ただ、さすがの天邪鬼代表のブルバキとしては、ややズレた理由ですけど百貨店等々の大手が一斉に閉じたからが大きな理由ですね。

愛知県が独自の緊急事態宣言を出したときに、何かしらモニョモニョして、大きいところは営業を短縮して続けると思っていました。そんな素人予想は外れて、大きいところほど直ぐに休業に入った気がします。そのときに、勝ち負けでは無いんでしょうけど、でも負けたなと思ってしまいました。

僕みたいな個人店がやりがちなのは、大手を槍玉にあげて、今様にザックリ表現すればそれらをエシカルじゃないとし、エシカルな私どもから買ってくれた貴方も今日からエシカルな存在ですねと味方につける方法です。資本主義的では無いと言う方が伝わり易いかもしれません。多分ブルバキも、少しもその要素が無いと言うと嘘だと思います。そういう観念を取り除く、純粋経験だ何だかんだとその観念を減らす努力はしているとブログでちょくちょく言いつつも、提供するこちらも、受け取ってくださる皆さんも、ちょっとはその気があるはずです。完全に消去するということは覚りであって、そんなことはちょっとやそっとでは訪れないでしょうからね。

それで話を戻して、蓋を開けてみたらどうだったか。そりゃ考えたら当然なんですけど、大きいところもエシカルでした。むしろ、それぞれに様々な状況、金銭的なものを含めてあるんでしょうけど、大きいところの方が、一番明瞭な休んだ休んで無いのそれだけを判断の材料にした場合は、よりエシカルでした。それに参りましたという気持ちになりまして、参ったんだから、恥ずかしくても素直に後追いして真似をしようと思い、休業を決めました。ちょうど、ほとんどの加工とお渡しが済んだのもありますけどね。

『世界の哲学者に人生相談』という面白い番組に最近気づきまして、この前が九鬼周造の回でした。まさに、いまは意気地が試されているんだなと、ここで書いてしまったらやせ我慢でも何でも無くなってしまうんですけど、もうこうなったら積極的に休んでやろうという所存です。

(営業再開まで、あと(未定)日)

最近の徒然
雑記

20.03.29

テレビ番組『100分de名著』の3月、とても良かったです。良すぎて、立ち読みをせずに勢いでテキストと小説を買ってみました。人生初の、SF小説です。映画でしか触れてこなかったですね。

いまこれを『太陽系の最後の日』を読み終えた段階で書いております。テキストは“はじめに”と、“第1週 知的好奇心が未来をつくる”を読み終えております。特に、テキストのはじめにの部分には心底感動しました。テレビで放映されてない、素晴らしい部分がぎっしり詰まっていました。いつもより、テキストも分厚いですしね。熱量が凄まじいです。

以下、引用です(テキストp.6,7)。

〈SFとは何か–これに答えるのは「日本料理とは何か」「フランス料理とは何か」という問いに一言で答えるのが難しいのと同様に極めて難しい。どのレベルに焦点を合わせるかによって、いかようにも答えられるからです。(中略)…「“SF者”でない人に真にSFの感動が理解できるのか」という主旨の議論はありました(あります)。これは「真にその人がSFを読めるかどうか」は生得的に決まっている、わからない人は永遠にわからないのだ、という主張にも聞こえます。ですからこうした問いも含めて「SFとは何か」について論じるならば、それは「ぼくたちの人間性とは何か」という大切な問いに真正面から向き合い、考えることに等しい。〉

この部分の“SF”を、“メガネ”に置き換えても、“ヴィンテージメガネ”に置き換えてもそのまま通用します。要は、この時点で私にとって、おそらくみなさんにも他人事ではなくなっています。普段全く触れてこなかったSFを手掛かりに、自分自身を振り返る作業をすることになります。

さらに、以下引用です(テキストp.10)。

〈1961年、クラークはUNESCOが運営するカリンガ賞…記念スピーチでこう語りかけました。「(中略)…(SF作家は)読者に対して心の柔軟性を、変化への心構えと“ようこそ”という気持ちを−ひと言でいえば、適応性を促すのです」〉

店をやっていますと、適応性を促すということが、本当に難しいわけです。商売における市場のセグメントと対立して、気を抜けばこちらの投げ掛けが排他的になりがちです。適応の真逆とは言わなくても、適応ではない何か、そんな行為に陥りがちです。そしてそれは、本来の適応性を促すことの難しさに向かう以前の、前段階の問題な気もしてきます。いつも、そこで悶々と自信を喪失します。

例えばAとBが存在し、AをとればBが蔑ろに、BをとればAが蔑ろになってしまうようなジレンマに挟まれることなんて多々ありまして、と言いますか、皆さんありますよね何かしら。むしろ生きることはそのハザマでギュウギュウと毎日搾られることなんじゃないかなと思うんですけど、そういうことから逃避をしない為にSFを読んでみるということが、私にはとても新鮮で、久々に脳みその中がビシャビシャに楽しい汁でダクダクになっております。

そしてそれは、ちょうどこの前の数学の演奏会での「なれる」こととの親和性を感じておりまして、そこで紹介されていた宮沢賢治も読み始めました。なれると適応の微妙な差もありますが、やはり近いものを感じました。

ちなみにセロ弾きのゴーシュは中学生ぶりに読みましたが、こんなに良い話だったのかと仰天でした。多分あのときは噛んでないですね。字面を噛まずに飲んでました。

近況
雑記

20.03.07

そういえば初めてイケアに行って、かなりはしゃいでしまったことをここに書いていないかもしれません。巨大なシステムが眼前に展開されている様を、初めてこの目で捉えた気がします。倉庫は本当に綺麗でした。モンゴルで地平線を見なくても、人間の小ささを体感できました。

話は変わって、写真はユニクロの雑誌の第2号です。これもとても良かったです。巨大資本がますます強すぎて、ニッチな零細としては参っちゃう毎日です。ますます貧乏暇なしです。

ただ、自分が銀無垢やらヴィンテージやら販売しているからといって、検眼等々にもこだわっているからといって、あれら巨大なものたちを嫌いになったかと言われると、そうでも無かったりします。前述の通り、イケアでは嬉ション状態でした。創業時から比べますと、例えば量販のメガネに対しての考えも相当変わりました。それで良いってわけでも無いですし、それだけで結構というわけでも無いですし、むしろニッチ以外駄目という感情も無くなりました。

ブルバキも4年経ちましたが、意図して角を落とそうとした覚えはないです。では、なぜそうなっちゃったんでしょうね。ついに俺は、巨大資本に去勢された資本主義の犬になっちまったのか、、、そんなことを考えながら1月と2月と過ごしておりましたところ、ついに、心の決着がつきました。それが先週の土曜日のことです。久々の、数学の演奏会への参加です。

数学の演奏会というお題目と思っていましたら、大人の為の数学講座と変わっていましたね。何だかんだ年一回くらい聴講しております。ちなみに、時間オーバーして4時間くらい演奏はありました。その間、数式はほとんど出てきません。ですから、もちろん演算は皆無です。実態をよく知らない人は、数学なのに!と、なんだか不気味でゾクゾクしますよね。だからこその個人的当たり回でした。演算は、得意な人や好きな人がやれば良いですからね。

ここでも頻出の岡潔は数学を情緒とし、情緒を、目に見えない対象に対しておもいを馳せる行為と定義しておりました。今回は、別の方の別の数学の広い定義から話をスタートしましたが、似たような感じで「(不可解なものに対して)なれる」行為として言い換えていました。なるほどなるほど、不可解な未知のものと付き合う行為だと。

講演では色々あって、内容がアイデンティティ周辺になったときに、不可解との付き合い方が問題として浮かび上がってきます。その色々は、まず、ブルバキという凡才では書ききれないのと、お金払って聞いてみて下さいというので飛ばします。

不可解とは、私が理解できない、理解が及んでいないものたちです。ここで気になるのは、その理解という言葉の指す行為です。つい先程は、広義の数学から不可解と「なれる」と書きました。この違いが鍵でした。

理解というのは、しばしば暴力的でもあります。自己を中心とした、シャッターを降ろす行為に通ずるときもあります。要は、理解が指す行為というのは、自他の境界をハッキリさせる行為ということです。自分の内と外が生まれます。

その理解が中心で生活すれば、自分以外の、つまりは不可解な外側に対して、常にシャッターを降ろすかどうかの判断の連続です。そして、降ろせば降ろすほど、講演では「純粋で清潔などこか」と表現されていましたが、その領域がはっきりとします。それももちろん良いはずでしょうけど、その残った領域のサイズが大事で、生存できるほどの広さを備えているかどうか、そこでしょうね。

そうではなくて、私は、私自身こそが(世界にとって)不可解な訪問者というふうに、スタートの認識を捉え直すとどうでしょうか。そもそも、他者からしたら私だって不可解な一員でしょう。自分がシャッターを降ろす云々の前に、そもそも向こうから先に降ろされているかもしれません。勝手に理解されまくって、自分の領域を確保出来ないかもしれないと想像すると、やや恐ろしく感じます。

でも実際は、そうはならないですよね。理解し合わなくても、知らないうちに理解されまくっていても、覆さなくてそのままうまく付き合うことだって出来ます。むしろそういう機会の方が多い気もしてきます。適当に表面だけで付き合っているというよりも、そこに配慮があって、何となく腑に落とすことの連発でお互いに生きている感じです。

後者であれば、自己に固執することなく活動が出来、境界は曖昧で広がりがあるように見えます。ただ、薄く広がりすぎて溶けて消える可能性もあって、そのときはアイデンティティの確保が問題になります。ただ基本となる、領域が膨らもうとする力は魅力的です。

ここでようやく、冒頭のイケアとユニクロに話は戻ります。まさにこの二つの例は、なれようとする行為だったんだなと、いまさら納得しました。素材とか産地とか、デザインとか他もアレコレ、ニッチに局所的に突き詰めたものに対しては各々劣るかもしれませんが、彼らはその一点で勝つことは望んでいないでしょうし、そのニッチになりたいわけでもありません。もともとのアイデンティティを確保しながら、なれてみようとしている、真似をしながら学びつづける姿勢を感じます。それを実際に身銭を切って行う凄さは、商売を始めると特に分かります。

今回、講演を聞いてより自覚的になりましたが、ヴィンテージ眼鏡の世界なんて、まんま当てはまります。特に、理解の方にです。

最初に、あの辺りが至高と言っちゃいましたからね。まさに俺か俺以外、内と外の世界であって、純粋で清潔な場所を明確に示してしまいました。そうなりますと、維持できるか、縮小して点になるか、ジワリと汚れていくか、どうなるんでしょうね。経営的には、マーケットをセグメントして云々し、狭く深く攻めるという定石がニッチな商売にはありますが、それと矛盾する部分もありまして、ここで経営的には苦悶と葛藤です。

話を戻しまして。実際、その領域の明瞭さについては、早い段階で危機感を感じておりました。むしろブルバキを始める前からです。ですからブルバキはスタート時から、「それ以外」のラインナップをメインで販売を続けています。そんなことを続けていましたら、次第にその感覚は自己の他の感覚にも伝播していましたね。やはり、物の力は凄いなと感じます。物の所有は侮れないです。

去勢されたというよりも、そうしないと生き残れないと何となく思っていたからそうなったという感じです。ドライに言えば、生き残るための生存戦略でしたね。また何年かしたら変化していそうで、それはそれで楽しみではあります。

読書以外にも当てはまり過ぎる
雑記

20.01.26

『読書について ショウペンハウエル著 斎藤忍随訳 岩波文庫 p.36,37あたり』

何気なく読んでみたら、止まらなくて読み終えてしまいました。チクチクと、ところどころ刺されて、出血無しでは終われない感じです。

150年前の人間と、なんも変わらないですね。

悔しくて
雑記

20.01.20

オフホワイトの、ワッフル欲しかったんですけど抽選当たらず。

ということで、商品管理棚のカーテンをあれっぽくしました。やる前から分かっていましたが、これでは全然、気が晴れないですね。

雑記中の雑記
雑記

20.01.17

たまたま構造主義を齧る前に、現象学をペロッとしたので、両者が仲が悪いと言いますか、なかなかお互いを認められにくい説同士というのは飲み込めました。

個人的には、なるほど困ったなという箇所もありまして。散々メガネを味わう主体の純粋性だなんだ、そういうことをつらつらと書いてきたわけです。店というのが、私にとってもお客さんにとっても、その実践となれば良いなと。

ちょっと前も、君たちはどう生きるかを持ち出して、そんなことを書いたはずです。そこで困ったことに、構造主義からすれば、主体とか何とかそういった類は普遍的では無いわけですから、普遍的で無い純粋性って何だ?みたいな感じで路頭に迷っています。

哲学を学んだ訳でも、専門家でもなく、ましてやベルグソンくらいしか原本の日本語訳を読んだことが無い人間ですから、悶々としたところで解決出来る訳ではありません。ただ、個人的には、特に無垢物を販売する意気込みに影響を及ぼしそうな気配がしておりまして、銀無垢が入荷するまでには、何とか自分なりに消化させたい気分です。

追いつきました
雑記

20.01.14

もう加工やら何やら、追いつきました。平穏を取り戻しております。明けて早々、怒涛でした。

あまりにもメガネウェーブが怒涛過ぎて、今日はメガネノータッチデイにしました。眼鏡屋ですけど、今日だけは眼鏡が気分じゃ無かったですね。明日は回復すると思います。

尚且つ近頃、平穏な時空は、ますますこの店にいる時だけになってきていますから、仕事で必要なら早めに読んでしまわないと、という焦りも募っておりましたので、今日はこの本を読み切りました。

ヴィンテージ眼鏡の世界も、まだ黎明期なのか昇り切らずに沈み始めるのか分かりませんが、いずれにしても何かを一強に仕立て上げて、それとそれ以外みたいな区分が手を替え品を替え続いている気がします。まあでも、ヴィンテージ眼鏡の世界以外では、よく店頭でもお話しするように、1900年くらいから徐々に一強じゃない、あれもこれも良くなっちゃう時代が来ているわけで、ヴィンテージ眼鏡もそうなる、と言いますか、それは免れないのではないかなぁと思ってはいます。どの年代のどれもそれぞれに良いよね的な風になるのかなと、なれば良いなと。結局、願望込みです。

店頭で、それを実感出来る売買というのは、まだまだ少数派ですけど、3年前に比べると多くなっていますね。今回の、久々の服屋さんでの外商は、販売内容を振り返りましても、そろそろ変わりそうだなぁと感じることが出来ました。

構造主義は曖昧な理解のまま読み終えました。その構造を説明する際に、数学の構造を用いて説明していくんですけど、それがとても動的で良いです。歴史が動く瞬間に立ち会ったんじゃないか俺は、的な感動を覚えます。第三章です。いま、私が何かを考える、何かを感じるという土台が、こうやって築き上げられてきたんだなと、しみじみします。

ぼくのしょうがつやすみ
雑記

20.01.03

元日の時点で、親戚付き合いに限界を感じ、2日と3日はサササッと距離をとって、ひたすらに積ん読の解消に努めておりました。あとは録画したアドベンチャーレースを観たりとか。集まるのが嫌とかじゃなくてですね、これはもう、言葉に出来ないですね。

積ん読の中に、年末にお客さんに教えてもらった本も入っています。

めちゃくちゃ非現実的かというとそうでもなくて、並行宇宙論とか世界5分前創造仮説に近い内容とか、現実から離れすぎていないです。

とくに、ふるまいによる心の有る無しの描写は、現実社会でもその有無が怪しくなるくらいに強烈です。心なんて無くて、ふるまいが一致しているだけではないのか?そんな風に疑い始めますと、生を問うのと同じくらい、足場がガラガラと崩れるような不安を覚えます。

精巧なアンドロイドであるジェミノイドは、そういうことを研究する為に生まれているはずですし、そこまで人間に似せなくてもR2-D2やBB-8に心や感情を感じるのは私だけでは無いはずです。

メガネを通してやれ純粋持続だ、やれ本当の感動だ、とか言ってましたけど、そもそもの感情の源泉であるような心が有るのか無いのかどうなんだ?みたいな地平に戻されてしまって、打ちのめされました。そんな良い本です。しかも小説なので、哲学書周辺と違って、サラサラしてます。

面白い
雑記

19.12.28

今回は音楽特集でした。もっと、今の音楽を聴こうと思い改めました。新しい服もそろそろ欲しいなと思いましたね。

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