カテゴリー:雑記

抗う
雑記

21.06.06

久々に時間論です。帯見ても、カバーの裏見ても、「エレガンス!最高!」みたいな雰囲気が漂っていまして、例えば数学で「エレガント」な解法みたいなエレガント系賞賛のときは、本当にすらすら分かりやすい明瞭さを伴っています。ところてんを食べるときの感覚に近いですね。なので、そんな心持ちで挑んだところ、結構??が多くて戸惑いました。まあまあ噛まないとダメでしたね。式を使わないというポリシーが本に貫かれておりまして、それのおかげで読みやすい方もおられるのでしょうが、個人的にはそのせいなのか6章くらいまでフワフワしちゃいました。

この本よりも10年くらい前に、日本で出版された本があります。結論はほとんど一緒だと思われます。正直、「時間は存在しない(以後カルロ本)」の理解のためにこの「時間はどこで生まれるのか(以後橋元本)」を参照しまくりました。カルロ本は、専門家として時空に作用する要素として重力の考察があります。ただ、橋元本の相対論の理解がないと、「ごめん、その前に速く動くと時の流れが遅くなるってことに、まだうんって首を縦に振ってないんだわ」という感情が噴出して、この辺でギブアップしてしまいそうになります。エントロピーの部分の理解にも、橋元本の赤玉と白玉の交換の図が大いに役立ちました。

カルロ本の訳者あとがきにある通り、マクロな時間の源泉が、ある数学の非可換性のみで確保出来るのでは?という考察は、理解度50パーセントながらおぉーってなりました。

カルロさんも橋元さんも、マクタガートの時間系列A・B・CのA・Bは実存しなくて、Cだけあるよねって主義です。サイエンス的にはAもBも無いって言われても、現にいま私の心にたぎるAの時間はどうしてくれるわけっていう心の落ち着かせ方は微妙に異なります。ですが、ざっくりな理解ではあんまり変わらない気がします。それはエントロピーの増大と意志が鍵になっているという主張はおおよそ一緒なはずです。

カルロ本と橋元本では正反対な題名なんですけどね。橋元本で始めに引用される、マクタガートの分類を適用すれば、どの時間が存在しないのか、そしてどの時間がそれでも尚、生まれてくるのかというのが分かります。

橋元本の初版が2006年です。カルロ本(日本語版)は2019年ですから、少なくとも13年ほど、この「あってC系列くらいだわ」という派閥が存在しているということに安心しております。私が橋元本を始めて読んだのがおそらく2010年ごろです。ブルバキを始めるときには、橋元本のエントロピー増大が云々それに抗う意志が云々みたいなことが、頭の片隅にありました。今はサンプラチナもやってますけど、とくにブルバキを始めるにあたり銀無垢がどうしても外せなかったことは、この辺に関係しています。当時は、普遍性とか言っていた気がします。

この5年で、ヤフオクだけでは無くてメルカリやら何やらも普通になりましたし、なんならebayも普通になりつつあります。頻繁な売り買い・物の出し入れでエントロピーの増大に抗うってのも一つの方法ですし、基本はそれが推奨された行為なんでしょうけどね。でもやっぱり動かないっていうのを何とか作りたいなぁという気持ちは今もちゃんとありまして、今年もなんか作ります。

金閣寺
雑記

21.05.14

三島由紀夫ときくと、肉体的にもそうなんでしょうけど精神的にもマッチョな感じがして、そんなに鍛えたら壊れちゃうなぁって思っていたんで避けていました。それに、古本屋に足を運ぶとたまに三島由紀夫コーナーがあって、上級者向けみたいな雰囲気が出ています。それが刷り込まれて、初心者だしお断りかなぁみたいな、妙なハードルの高さを感じて避けていました。

最近のお決まりです。いつものあの番組、100分で名著で「めっちゃ面白いな」と感じてとりあえず買いました。5月は三島由紀夫の金閣寺です。番組で結末を知る前に一旦読み終えておきたいと感じて、木曜日を費やして読み終えました。三島由紀夫は、葉隠入門しか読んだことが無いので、小説は初めてです。

とりあえず政治的なことはよう分からんですか、美とか絶対的なものとかをある程度そのまま字面通りに読んでみました。ただ、あまりにもまっすぐ「金閣寺」と読むと、やや滑稽な気もしてきましたし、100分で名著の2回分の放送を見てある程度予備知識がある状態でしたから、金閣寺を例えば私で言えば眼鏡に置き換えてみたりとか、そんな事をしながら読んでみますと、確かにこれはなんだか凄い小説だなという感じがしてきます。

おちょやんで、天海天海もめっちゃ悲劇的になると「(むしろこれこそ本物の)喜劇や!」みたいなことを言いますし、いまやってる連続ドラマの「コントが始まる」も、それに近いのかなと感じます。本人達は必死で、人生の大きな決断が迫られていて、話の核はグループの解散という悲劇なんでしょうけど、側からみたら喜劇ですね。もちろんそういうドラマ構成なんでしょうけど、あれ面白くてハマりますね。

同じNHKの番組、達人達という対談番組で宮島達男と大川豊の対談の回がありました。気になって大川興業を調べてみると、「一線を越えたものはすべてお笑いだ!」と書いてあります。本当にそうなのかもしれません。基本は、人ごととして笑い飛ばせるのかもしれませんね。では、何が自分では笑い飛ばせないのか、下手するとそれがもとに悲劇になりうるのか、溝口(小説の主人公)にとっての金閣寺のような存在になってしまうのか。何で私にとっては金閣寺じゃなくて眼鏡だったんだっけ?みたいなことを、久しぶりに振り返ってみようかなと思いました。

小説内で溝口(主人公)は、女性の裸体を見た瞬間にブワっと金閣寺に変貌する体験をします。それでいうと私は、幸い一回もブワっと眼鏡に変換された記憶が無いです。まだまだ修行が足りんのか、眼鏡への没入が足りないのか、悲劇に足を踏み入れていないのかどうなんでしょうね。

抜き出すだけでじんわりする箇所も多々でした。個人的には「私の感情はいつも間に合わない。」というのは、凄いわぁってなりました。

久々に岡潔です
雑記

21.05.07

岡潔で読んだことないのあるなくらいの感覚で購入しました。講演録でした、68年69年あたりの。小中高大とあれこれ講演されているようですが、凄いですねどの回も内容はほとんど変わらないですから、大人でもポカーンで小学生はもっとポカーン連発でしょう。そんなこともないのか、子どもの柔らかい心の方がスッと馴染むのか。どっちなんでしょうね。

そういう私もポカーン連発だったんですけど、毎回ポイントは同じなはずで、自然科学で何でも全部分かると思うなよと、そこ大事だぞと、そういうことを伝えておるのだと思われます。それを、自然科学(数学も自然科学のうち)の権威である私(岡潔)が述べておりますというところが旨味です。

この多変数〜はフェイントです。数学の偉い人が書いた、あれこれ数値化して覗いた日本の低さを憂いている本では無いです。

もっと早く読んでおけばなぁ
雑記

21.04.27

店の配置換えも終わり、ようやくあれこれの余裕が出来てきた次第です。店の、カッコつければ理念みたいなものはもちろん変わっていないんですけど、方針みたいなものは変わりました。それは年始の、ディスタンクシオンに触れてからの懺悔ともちろん関係があります。方針が変われば具体的な展開等々も芋づる式に変わらなければいけませんから、片付けも兼ねてレイアウトも変えてみました。

余裕が出てきたので、久々に本読みました。國分功一郎さんの本は、文章からここまで人間の心を読み取ってしまうのねと、ただただ驚きです。変な感想になりますが、凄い人って凄いわーってなりました。自分に近い相談なんかは、一緒に助言をもらっているのかそれとも何となく怒られているのか、そんな気分になれます。

その國分功一郎さんの本では、各相談の末尾に処方箋的な感じで推薦図書が提示されます。そこに、二村ヒトシさんの本が何度か提案されていたのでそれも読んでみました。特に女性向けに書かれた本の方が、こういう滅多にない読み物の幅が広がりそうな気配のする機会には良いじゃろと思いまして、それにしました。そりゃまぁ、もちろん、「二村ヒトシ」という名前だけでも、ねぇ、、、興味が湧きました。

この本は、それこそ店を始める前に読んでおくべきだったなと、それくらい感動しました。なんか、恋愛とか超えて全部に当てはまりそうです。ディスタンクシオンの実践編という感じでした。これも、凄い人は凄いわーってなりました。

凄い人から色々なことを吸収しないといけないので、これからも!?作品を拝見しようと思います。

ずーっと片付けていました
雑記

21.04.19

米軍のロッカーを頂いたことで、トランク等々の大物が片付きました。それで綺麗にしたい欲求に火がつきまして、ひたすら片付けをしておりました。そろそろ終わりです。今までの店は、ダメな汚さだったなと反省です。

片付けの一番の収穫はこれですね。オープン当初からあった棚ですが、これ、棚の中が光りました。3年半経って、ようやく仕組みに気づけました。裏の秘密の小部屋に、蛍光管のユニットが埋め込んでありました。

オレンジのギザギザのプラ板が、怪しく光っています。棚自体はカッコよくなりましたが、中の物を良く見せようという意気込みは感じられないですね。依然、不思議な棚ではあります。

本筋ではないところ
雑記

21.03.03

この前の本『認識と反省性 ピエール・ブルデューの社会学的思考 磯直樹 法政大学出版局 2020』から抜粋です。本筋ではなくて、準備の部分ですし何ならブルデューの言葉ですら無いんですけど載せておきます。どこまでも先回りされている感覚です。よく使う言葉を基に、自分の思考をも分析の対象として認識が出来ているというのが、プロの技ですね。

「(p.308)…みずからが大衆(mass)を構成する一員にすぎない存在である、と考えたがる人間はだれもいないのであり、したがって、じつのところ大衆(masses)などというものは存在せず、他者を大衆とみなす方法のみが存在するということを、わたしたちは認識し他者に礼をつくすべきなのだ」

マスを敵対視していないと宣言するだけではダメで、マスを想定した時点でその眼差しが、相手にも自分にも向けるそれがアウトということでしょう。大反省。

買いました
雑記

21.02.26

私がその問題を始めて知ったのがおそらく20年くらい前で、確か中学生くらいのとき。他人のお母さんのおにぎり食べられるか問題というものです。

その問題を知ってすぐだったと思います。だから20年くらい前で間違いないです。友達の家でマリオテニス64をやっているときに、その子のおばあちゃんが手作りいなり寿司を出してくれたことがありました。あぁこのことかと。私は試されているんだなと勝手に思って、勢いよく食べた記憶があります。何なら、今までそんなの全く気にしていなかったのに、そんなの言われたら、ちょっとこれから意識しちゃうじゃん…みたいな、ここだけ切り取ると恋心に気付いたときのセリフみたいな感じですね。まあでも知らなくても良いことなんて沢山あるなと思った記憶が残っています。知らない方がスムーズなことなんて沢山ですよね。

ブルデュー関連の本を読んでいます。この前の100分de名著のテキストの中で紹介されていた本です。この部分を読んで、お母さんのおにぎり問題を思い出しました。手造りが一番みたいなことを聞くと、私は頭の中で手造りおにぎりとコンビニおにぎりを同時に差し出しています。

ブルデューのこの辺のはなしとか研究内容が、まさに眼鏡周辺にも当てはまる気がして目が離せないです。

あの頃のあれは何だったのか
雑記

21.02.20

面とか曲面とか角とかの話に今週はなりまして、なるほどなぁと教わったことが多かった週でした。

それで、そういえばなんですけどそれに近い話というのは中学校のときに習っています。連立一次方程式というやつです。

あれは、計算問題として捉えれば非常に味気無いんですけど、実際、なんとか法の二つで解けます的な習い方しかしませんし、ほんとうはもう少しコク深いです。

あれは、平面上に平行でない2直線があって、それはどこかで交わりますなぁそれが無性に知りたいですなぁという、そんな話に置き換えられます。

じわじわ記憶が蘇ってきたと思いますが、答えの書き方は例えば (x,y)=(○,△)みたいな形式です。ただの表記の問題ですから、嫌であればx,yを横と縦に呼び変えても問題はないです。

平面上で横と縦が決まれば、そうです点を示します。私も18歳過ぎて気づけたんで、数学科を目指した人間としては遅すぎるとは思いますが、ここが面白くて、平面(2次元)の中で1次元(直線)と1次元(直線)が交わると、点(0次元)が生まれます。

そうなりますと、なんとなく想像を働かせまして、空間(3次元)に二つの平面(ともに2次元)があって、交わるとなにが生まれるかといえば、やっぱり直線(1次元)が生まれます。

雑なスケッチ載せておきます。交わる箇所に(青)直線があります。交わっている感が欲しくて描きました。手元で簡単に実現させたければ、折り紙の要領で紙を畳むと、そこに線が生まれます。それです。

なんとなくダラダラ書いてみましたが、もう少し雑に言えば、条件を課す毎に次元が下がるという話でして、直線を見るにしても点を見るにしても、どんな制約が潜んでいるのかみたいなこと考えると、一度見たものでももう一回見るのが面白くなったりします。自由な線とか表現としてカッコ良くて憧れますが、制約でしかない線と言い切るのもストイックでカッコ良さそうです。

ヴィンテージの眼鏡の世界では、どうやら角というのがキーワードですが、どの2平面によって成されるのかというのを探しながら眺めると乙でしょうね。

マジかあ
雑記

21.02.10

名駅のとぐろは、飛翔という名の芸術作品です。私も去年くらいに知りました。なんなら、噴水っぽく水も出せる仕組みが搭載されているみたいですね。

飛翔がいつか飛翔しちゃうのは知っていましたが、それが今年の3月だとは。引退のセレモニーも無いって。最後、水出して欲しかったなあ。

3周回ってスピルバーグ
雑記

21.01.24

昨年12月の100分de名著が「稲妻の一撃」でした。ようやく録画を見れましたし、テキストも読めました。年末の買い出しのときに、高島屋でついでに買って店に積んでおこうと思い本屋に寄りましたら、そのときは在庫切れでした。やはり、稲妻の一撃だった人が多かったんだなと妙に納得した次第です。今後の展望としては、ディスタンクシオンの本チャンを読む前に、迂回してテキスト内でオススメされている磯直樹さんの本を読もうと思っています。

『ディスタンクシオン』のテーマは、趣味とか嗜好という個人的な領域が、いかに社会と結びついているか(テキストp.5)ということでして、自分が好きで選び取った(区別した)はずの趣味というものが、実は社会構造によってはっきりと傾向づけられていることを明かしたそうです(テキストp.5)。

私個人で言えば、例えば最近だとスニーカーなんですけど、ニューバランスが好きです。そりゃ好きなんですけど、それもニューバランスがファッション界隈でどういう位置付けで、ニューバランスを履いているとどういう風に見られるのか込みで好きであるということが既に暴かれているという話がディスタンクシオンだそうです。そうしますと、私みたいなファッション天邪鬼は、一周回って逆に超王道だなということで、最近はナイキのジョーダン1を履いていますが、一周回った時点で大いに社会構造に巻き込まれています。ディスタンクシオン的には、あなたの経歴を見ていると、まさにそう言うと思いましたよ、ということでしょう。あえてのハイカットじゃなくてミッドなのも読めていましたと、どこまでも恥ずかしい限りです。ダンクのローじゃなくて、ジョーダン1のローって次は言うと思いましたよ、まだ続けますか?と。しくしく。何を履けばいいのか…。

テレビ放送では、映画を例に出していました。伊集院さんが「…そうしますと、3周回ってスピルバーグとか言う奴が出てくる訳ですね」と仰っており、本当に私を見てそのまま批判されているのかなと思うくらい的確に突かれた気分でした。ちなみにそれへの解説者の返しは、「3周回った奴の次は、8周回ってスピルバーグが出てきます」だそうです。だから、それも私が言いそうなんだよね。

ことさら私が核心を突かれてイタタタとなったのは、ということはですよ、純粋経験というものは無いですねと、そこです。散々、それについて苦悶しながら店を開けてきましたが、そもそもそんな純粋さは無いですよと。そこが、店にとってイタタタなポイントです。今まで拠り所にしていたところが、打ち砕かれてしまったことです。

テキストでは「『稲妻の一撃』の否定(p.19)」という章があります。たまたま出会ったということの否定です。冒頭で、稲妻の一撃とわざと使いましたが、全然そうでは無いみたいです。確かに、そう言われればそんな気は今までも何度となくしてきましたが、科学的な観察をもとに、統計学を用いて結論づけられているとなると、流石に凹みますこたえます。

ただ、ドン底まで凹まなかったのは、まさに純粋経験のような外的要因に左右されていない、主観と客観が分かれていないみたいなピュアなものを、実無限的に捉えることが間違っているのでは無いかと、ぼんやりと考え始めていたからです。つまり、純粋経験という圧倒的に高潔な経験が存在すると仮定し、何気ない日常の経験を非純粋な、不完全な経験とみなすことに間違いがあるのでは無いかと気づき始めていました。最近のブログで載せた、小林秀雄の経験に関する文章にて、経験というものはそういうことじゃ無いんだよと既にたしなめられており、それが緩衝材になってくれたおかげでディスタンクシオンにパッと出くわしてドンっとぶつかっても、衝撃で再起不能になるというまでには陥らなかったのでしょう。

稲妻の一撃は無い、純粋経験は無い、それを呑んでしまうと何を高らかに宣言すれば良いのかと、そこは正直困ってしまいます。個人のお店が存続するにはそういうスローガンみたいなものが、強く惹きつける何かがあった方が実際は経営しやすいですからね。そこで勇気を持って良心に従い、知ってしまったからにはもう戻れないと、純粋経験は無いぞと腹を据えたところで、さてどうしようと困ります。わたしは、何を拠り所に頑張れば良いんだっけ?と。

純粋経験的なものを、実無限的に捉えることは間違っていると、そういったものは無いぞという話でした。では、ディスタンクシオンは純粋経験を可能無限的にも無いぞと、そう捉えるのは間違いだぞと、そこまで拒否しているのかといいますと、まだ原本まで到達していないですから微妙なところなんですけど、テキストを読む限りではどうやらそこに希望が見出せます。そこまでは拒んでいなさそうです。以下、引用します。

「(テキストp.98)もしみなさんが『ディスタンクシオン』を読んで、自分のやっていることを台無しにされた気分になったのであれば、自由の神話にとらわれているのかもしれません。本質主義的な「稲妻の一撃」にとらわれている。私たちは、自由とは何の規則にも従っていないことだと考えがちですが、何の規則にも従わないことはそもそも私たちには不可能です。すでに述べたように、有限の規則から無限の行為を産出していくこと、それこそが私たちに与えられている自由なのではないでしょうか。」

以前に紹介した、『無限論の教室 野矢茂樹著 (講談社現代新書)』にも、近い表現があります。こちらの方が、これからどのように過ごせば良いのかイメージを湧かせてくれる気もするので、もう一度同じ箇所を引用します。

「(無限論の教室 p.229)可能無限の立場からはこう言えます。公理系が必要ならば作ってもよい。しかし、完結した公理系など作れっこないのです。無限は完成を拒んでいます。そこからはみ出たものを捉えようとし、捉えたと思ったときには新たなものがはみ出ていく。このたえざる歩みこそが、人間が無限を生きるということにほかなりません。そもそも完結した全体としての完全なんていうものがないのですから、“不完全”ということも無意味でしょう」

文章に似たような箇所があるからといって、純粋経験が可能無限的には、ディスタンクシオン的には完全に拒否されていないと関連づけるのも科学的論理的では無いなと思うんですけど、まあでも、なんとなく余地が残されている気がしませんか。特に、はみ出ては捉えてのくりかえしであるという無限論の教室での表現は、お店にしても例えば物作りにしても開け続ける作り続けることの、マネーの側面だけでは無い動機づけにもなりますから、案外ポジティブな話だったのかもしれません。

長くなりました。本当に反省したので長くなりました。竹原ピストルさんの何かの歌詞で、「自分の積み上げたもので闘うのではなく、自分の積み上げたものと闘う」みたいな歌詞があった気がします。ようやく自分ごととして沁みました。

つまりブルバキよ、お前はもっと黙って物を売れということですね。今まですみませんでした。いまは一周回って値札付けっぱなしです。番号管理やめました。

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