無言の圧力zakki

25.12.22

スニーカーの呪縛から解き放たれて、いまはシールに囚われております。色々な流派があるようですが、立体シールとまとめて称することとします。この立体シール、マジで買えないんですよね。まさかこんな時代が来るとは、シールが買えない時代がくるとは思わなかったですよね。

資本主義のリズムに合わせて勝手に身体が動いちゃうくらいなら軽快で良いけど、踊らされ過ぎるのは疲れて幸せじゃ無くなってきます。そうなったら休憩するとか別の楽しみを見つけましょうという合図なんでしょうけど、そうは言ってもなかなか止められないわけで。自分のことでしたら、買うのにあまりにも負荷がかかるならカテゴリーごとスルーしちゃうんですけど、子どもが欲しがるとなるとそれはまた別ですね。とりあえず踊ってみるしかありません。

それでこのシールですが、接着面を交換のときに触りすぎているのか、お菓子を触った手でシールを触っているのか、ポロポロ家で落ちています。シール帳がそういう剥がれやすい仕様というのもあるのでしょうけど。

ホコリが着いてダメなものを回収して、両面テープで再生するのがここ最近の日課です。勿体無いし、買う苦労を考えると大事にして欲しいなぁと思いつつ、まあでもシールだもんなぁとも思いつつ。トップの画像は再生後です。

自分の子どものときを思い出してみても、冷蔵庫やらタンスやらにとにかく貼っていました。貼ったらなぜか気が散漫になるのがシールだなと。だったら貼らなくて良いのにね。何なんでしょうね。私はレトルトのクレヨンしんちゃんカレーのデカいシールか、カードダスのドラゴンボールのキラカードがシールになっていて、それらをメインに家中貼りまくってました。

この立体シールたちも、シール帳に移さずそのまま箱ごと眺めるのが一番整然としていて綺麗だなと大人は思っちゃいます。とりあえず子どもは手帳に貼り替えます。そうするとポロポロ落ちます。それを掃除機をかけるときにピックしています。

再生に至るまでに考えていたのは、例えば自身の手帳に貼り替えた後に、無意識のうちにポロポロとシールが落ちてしまっているのは、シールを大事にしていないのか?ということです。いやでも、よくよく考えてみますとシールを大事にしているからこそ、自分の大好きな手帳にまず一回貼り替えを行っていると。しかもシールとしての機能をまず一回は味わっているわけです。それは、まさにシールを大事にしていることの現れではなかろうかと。

そういう変なことを考え始めてしまいますと、なんだか注意出来なくなってしまいます。そもそも、その大事にしていないという注意は的を得ているのかと。飾るスニーカーと履くスニーカー、どちらが大事にされているのか?大事の仕方、大事の方向が違うだけでどっちもです。シールも同じことかと。それで、注意出来ないなぁってなってしまい、毎日無言でピックし再生する日々です。

店のメガネも一緒で、物は味が出なくなるまでしゃぶり尽くさないといけないという大事な理があります。そのスピリッツをこっそり忍ばせながら、今日もシールを再生しております。

自分も再生したシールをもらって、貼っています。キラキラでかわいい。

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