色々、製作でキリキリしているせいか、ブログやらに逃げる機会が増えています。商品だけ載せとくことがお店としての正義と分かりつつ、冗長な日報が続いております。早速守れておりません。
作為とかその周辺の話になりました。日曜日に何だかんだ5時間くらいはそれについての対話になりましたから、自分の為にも反芻しようと思っています。フレームの製作に食い込みつつあるということで、一度は考えるべきことかなと感じてはいました。
無作為がウリの物が増えた気がします。私が初めて、それがストロングポイントになっているのかと感心した機会は、2年くらい前の服屋のイベントでした。特別展示・販売の催事でして、障がい者支援施設で作られた服やカバンを見たときでした。色彩が豊かで、構図や構成が爆発的で非常に力強い印象が記憶に残っております。
その会場で、頻りに耳にしたのが「無作為で良い」という賞賛でした。販売する方も見る方も、それらないし作り手を無垢とし、現実に汚されていないからこそ生まれる「無作為」の産物として眺めておりました。
ただ、私に関して言いますと、同じように感動はしました。その上で、無作為かどうかは分からないなと思った訳です。健常者(この境界の用意の仕方が上手くいかない、問題があるのは承知ですが、今のところ思いつかないので勘弁してください)から、言語(思索)を通じてそれが分析出来ない、会話を通して確認出来ないというだけであって、綺麗に描いてやろうとか、生きている楽しさを色彩で表現しようとか、言語化されていない何かが、製作者の脳にあるかもしれません。ノーマライゼーションの観点から、同じ人間として対等にお付き合いをするのであれば、作為があってそれを形にしてやろうと頑張った結果と認識した方が自然な気がしました。むしろ相手を無垢なものと決めつけますと、往々にしてプラスのシャッターが下りる気がしております。
近い体験を、私自身の記憶から。幼稚園の年少か年中だと思います。母親の似顔絵を描くということで、緑のクレヨン一色で顔面を描いた記憶が、朧げにあります。なぜ覚えているのか。それは、その後に幼稚園のみんなでそれぞれ飾ったときに、おそらく塾で絵の教室に通っている子の絵と比較して、とても恥ずかしくなった事を憶えているからです。輪郭を肌色で、口を赤で、目を黒で、、、あーそういう事かなるほどね的な、言語化されていない何かを感じて、恥ずかしくなったわけです。正確には、その場で恥ずかしさのマックスを迎えたというよりも、迎えに来てくれた親に絵を渡すことが非常に嫌になった記憶があります。
今となっては、あのときの私に“上手く描いてやろう、綺麗に描いてやろう、正確に描いてやろう!”というような作為があったのかは判然としません。それ以前に、そこまで思考と言語が整備されていませんから、意識に立ち込めていないと考えられます。
ほぼ30年前のことに対しての推測になります。私が幼稚園生のときは、色と言えば緑でした。緑色が大好きでした。服に目覚めて紺色が好きになるまで、一番は緑色でした。ですから、好きな母親を、どうせ描くなら自分の好きな色で描いた方が好き同士でいいなぁ、というような、言語化される前のレベルで脳内で結合した何かがあったのかもしれません。言語を用いて、意識として立ち込めていなかっただけで、作為は存在したと考えられなくはありません。
要は、意識にあるか無いかで作為的かどうかはイマイチ判断がつかない訳です。そうなりますと、考えていなくても作為が含まれることがあるわけです。よって無作為というものは、かなり得難く難しい到達点と言えるのでは無いでしょうか。親しみがある言い方としては、悟りという言葉と同値かもしれません。それは、もはや生きているうちに実現出来るかどうかも定かではありません。
そこで、昨今の無作為たちはどのように捉え直したら良いのか?という話になります。これが日曜日の対話の核でした。前段では無作為というのは、作為を消し去ろうとする努力に、垣間見える機会があるという流れでした。これと比較して考えてみます。
極端に、例えばいまパッと作った物と、極致的な無作為とどう区別するか。物が出来るまでの、製作の姿勢に違いがありそうです。パッと作った物は、製作に臨む姿勢を想像するに、どうしても消えない作為を、それでも尚消し去ろうという努力では無くて、見なかったことにして蓋をしているように思われます。調べてみると、法律のことばで「不作為」という語がありました。
不作為:現実の事実・事象に対して積極的に働きかける行動をとらず、それらの事実・事象を放置すること。(ウェブより抜粋 世界大百科事典 第2版)
八割くらい、しっくりくるような言葉が見つかりました。だいたい、言い得ているような気がします。追求の放置です。つまり現在は、無作為と不作為がごっちゃになって使われている状況なのでして、消去せず置去りにすることが増えたということになります。
ならばもう一度、作為が含まれる物、無作為な物、そして不作為な物なのかを自分なりに選別し、吟味することが迫られます。もちろん、上手く分類出来ない物も存在するでしょう。しかしそれは、最終的に不作為を検出し排除することを目指しておりません。不作為でも自分なりに良さが見つけられるなら、それで良しということだと考えています。例えば表出する側が、それを知らずに全て無作為と称しているだけかもしれません。また、何事も緊張と弛緩のバランスと考えますと、不作為な物こそ自分にとって大事となる瞬間が、人生の其処彼処にあると思うからです。