カテゴリー:雑記

まだ上映するっぽいです
雑記

19.03.08

例の映画、ブルバキから徒歩3分くらいの距離にある名演小劇場で見ることができます。おそらく、インスタで載せれば商品のメガネよりも、修理に3時間費やした渾身の電動pezよりも、いいねを稼ぐのは間違いないので、ブログにて。

ルーペを頂いたことが一度きり、服を自分で購入したことがありませんから、そんな自分が見たところでどうかなと思いつつ鑑賞してきました。

細かいことはよく分かりませんが、とりあえずCAZALを掛けて行って正解だなと感じました。中・高と制服着用の学校に通っていました。今も昔も変わらずイケてないグループでして、学生の時に制服を着崩すという通過儀礼を通りませんでした。いまさら、それに近い心情を味わうことが出来ました。

映画の中で終わりがけ、マルタンは本当は楽しくなかったんじゃ無いかなというような推測がなされます。それこそ息を吸うように創造をしてきた人にも、そんな瞬間が訪れるのだなと呆気にとられてしまいました。

カタカナでクリエイティブといえば、何となくカッコいいくらいの印象しか抱いておりませんでしたが、もう少し恐ろしい行為なのかもしれません。行為に取り憑かれる、取り込まれる寸前までコントロールして自身を持っていかないといかんのでしょうね。少なくとも楽しい、楽しくないを超えてはいそうです。

そして、名演小劇場さんがすごいのは、同時期にアール・ブリュット関連の映画を2作上映するということで、創造について一層見識なのか理解なのかが深まるようになっていることですね。「描きたい、が止まらない」の方は、都合上、営業時間を縮めて観に行かないといけないので、困ってしまいました。

停滞
雑記

19.03.05

色々、製作でキリキリしているせいか、ブログやらに逃げる機会が増えています。商品だけ載せとくことがお店としての正義と分かりつつ、冗長な日報が続いております。早速守れておりません。

作為とかその周辺の話になりました。日曜日に何だかんだ5時間くらいはそれについての対話になりましたから、自分の為にも反芻しようと思っています。フレームの製作に食い込みつつあるということで、一度は考えるべきことかなと感じてはいました。

無作為がウリの物が増えた気がします。私が初めて、それがストロングポイントになっているのかと感心した機会は、2年くらい前の服屋のイベントでした。特別展示・販売の催事でして、障がい者支援施設で作られた服やカバンを見たときでした。色彩が豊かで、構図や構成が爆発的で非常に力強い印象が記憶に残っております。

その会場で、頻りに耳にしたのが「無作為で良い」という賞賛でした。販売する方も見る方も、それらないし作り手を無垢とし、現実に汚されていないからこそ生まれる「無作為」の産物として眺めておりました。

ただ、私に関して言いますと、同じように感動はしました。その上で、無作為かどうかは分からないなと思った訳です。健常者(この境界の用意の仕方が上手くいかない、問題があるのは承知ですが、今のところ思いつかないので勘弁してください)から、言語(思索)を通じてそれが分析出来ない、会話を通して確認出来ないというだけであって、綺麗に描いてやろうとか、生きている楽しさを色彩で表現しようとか、言語化されていない何かが、製作者の脳にあるかもしれません。ノーマライゼーションの観点から、同じ人間として対等にお付き合いをするのであれば、作為があってそれを形にしてやろうと頑張った結果と認識した方が自然な気がしました。むしろ相手を無垢なものと決めつけますと、往々にしてプラスのシャッターが下りる気がしております。

近い体験を、私自身の記憶から。幼稚園の年少か年中だと思います。母親の似顔絵を描くということで、緑のクレヨン一色で顔面を描いた記憶が、朧げにあります。なぜ覚えているのか。それは、その後に幼稚園のみんなでそれぞれ飾ったときに、おそらく塾で絵の教室に通っている子の絵と比較して、とても恥ずかしくなった事を憶えているからです。輪郭を肌色で、口を赤で、目を黒で、、、あーそういう事かなるほどね的な、言語化されていない何かを感じて、恥ずかしくなったわけです。正確には、その場で恥ずかしさのマックスを迎えたというよりも、迎えに来てくれた親に絵を渡すことが非常に嫌になった記憶があります。

今となっては、あのときの私に“上手く描いてやろう、綺麗に描いてやろう、正確に描いてやろう!”というような作為があったのかは判然としません。それ以前に、そこまで思考と言語が整備されていませんから、意識に立ち込めていないと考えられます。

ほぼ30年前のことに対しての推測になります。私が幼稚園生のときは、色と言えば緑でした。緑色が大好きでした。服に目覚めて紺色が好きになるまで、一番は緑色でした。ですから、好きな母親を、どうせ描くなら自分の好きな色で描いた方が好き同士でいいなぁ、というような、言語化される前のレベルで脳内で結合した何かがあったのかもしれません。言語を用いて、意識として立ち込めていなかっただけで、作為は存在したと考えられなくはありません。

要は、意識にあるか無いかで作為的かどうかはイマイチ判断がつかない訳です。そうなりますと、考えていなくても作為が含まれることがあるわけです。よって無作為というものは、かなり得難く難しい到達点と言えるのでは無いでしょうか。親しみがある言い方としては、悟りという言葉と同値かもしれません。それは、もはや生きているうちに実現出来るかどうかも定かではありません。

そこで、昨今の無作為たちはどのように捉え直したら良いのか?という話になります。これが日曜日の対話の核でした。前段では無作為というのは、作為を消し去ろうとする努力に、垣間見える機会があるという流れでした。これと比較して考えてみます。

極端に、例えばいまパッと作った物と、極致的な無作為とどう区別するか。物が出来るまでの、製作の姿勢に違いがありそうです。パッと作った物は、製作に臨む姿勢を想像するに、どうしても消えない作為を、それでも尚消し去ろうという努力では無くて、見なかったことにして蓋をしているように思われます。調べてみると、法律のことばで「不作為」という語がありました。

不作為:現実の事実・事象に対して積極的に働きかける行動をとらず、それらの事実・事象を放置すること。(ウェブより抜粋 世界大百科事典 第2版)

八割くらい、しっくりくるような言葉が見つかりました。だいたい、言い得ているような気がします。追求の放置です。つまり現在は、無作為と不作為がごっちゃになって使われている状況なのでして、消去せず置去りにすることが増えたということになります。

ならばもう一度、作為が含まれる物、無作為な物、そして不作為な物なのかを自分なりに選別し、吟味することが迫られます。もちろん、上手く分類出来ない物も存在するでしょう。しかしそれは、最終的に不作為を検出し排除することを目指しておりません。不作為でも自分なりに良さが見つけられるなら、それで良しということだと考えています。例えば表出する側が、それを知らずに全て無作為と称しているだけかもしれません。また、何事も緊張と弛緩のバランスと考えますと、不作為な物こそ自分にとって大事となる瞬間が、人生の其処彼処にあると思うからです。

まだ途中ですが
雑記

19.03.03

暇と退屈の倫理学から、次の本に読み進めております。確定申告云々が終わり、ようやく先週から読みはじめました。木曜日は熱で1日ダメにしてしまったので、まだ半分ほどしか読めていません。

今の時点でひとつ、感想とか解説じみたことなぞとも思いましたが、おこがましくて書くことも出来ません。読んでいて自分は、ちゃんとわかってんのかなー??という曖昧さの連続です。とりあえず現段階での気分としましては、

「あんまり深入りすると、販売とか接客のあれこれが全部気になって、身動き取れない」

という感じです。意志なのか選択なのかみたいな話題周辺も、相当ブルバキ自身が揺らぐ内容でした。接客とは、買うとは、選び取るとは、勧めるとは、、、。んーーー。

最後に、あの倫理学のような救いまではいかなくとも、実践における指針みたいなものが垣間見えてくるのでしょうか。それが楽しみで、三章あたりでペースダウンしたものの、四章から再び相性が良くなったのか、もりもり読み進めております。

今の枠組みの中でスパッと割振れる、割振れないとは話が逸れるかもしれませんが、そういうことは、日々感じます。

物でよく言われるのは、「物の価値は、お金ではない」みたいなことでしょうか。高い物を指して、高ければ良いものという訳ではないことを述べるときに、よく言われている気がします。ブランド物に関しても、同じように語られ、揶揄される傾向にあると思います。

ただし、その時点で実際は、物をお金のフィルターを通して見ている訳ですから、両者とも大きな差は無いように思われる訳です。では、物を見るときに、(高い・安い)と、(良い・悪い)の組み合わせで見ることから解脱するにはどうすれば良いのか?みたいなことを考えています。

飽きるあきない
雑記

19.02.27

シンプルなもの、ベーシックなものを買うべきか、それともデザインが盛り込まれたものを買うべきか?みたいな相談をたまにうけます。そもそも、シンプルであることとベーシックであることは同値なのか?シンプルとは何か、ベーシックとは何か。デザインとは何を指しているのか等々、どちらにするか云々の前段階で、すでに考え出したらキリがないです。その時は、そういう相談ではない事を瞬時に察して、とりあえず迷ったら素朴な方か派手な方かどっちにします?的な質問に回答を致しました。迷ったら楽しい方です。

よく、デザインが激しい物に対して言われる「デザインが入ったものはすぐ飽きる」について、これってどうなんでしょうね。本当に特異的なものであれば、いつだって際立っていますし、いつだって良いなあと感じる様な気もしてきます。飽きるのではなく、その尖りが嫌いにはなりそうですが…。

驚くべきことに、平成レトロという言葉が生まれたそうです。まだ実際には、店頭で飾ってあるファービーに対して「平成レトロ」と言われたことがないので巷での浸透度は謎ですが、その表現には納得です。ファッションの世界では、90年代が焼き増しされ始めました。ロゴ物やハイテクスニーカーの潮流が力強く続いております。そういう私も、まだちゃんとエアマックス95を履いております。

まだまだ眼鏡業界では店も私も若造ですが、そういえば30代に入っています。30代と20代の違いは、今のところほとんど認識しておりませんが、おそらく懐かしく感じる機会の多さだと思います。それに関しては圧倒的に増えました。エアマックスもそんな感じで買っていますし、今は、あの頃のPEZをもう一度という気分でして、捨てたことへの後悔の最中です。

それらの懐かしさは何で生じるのだろうかと考えていましたが、おそらくそれこそ見ることに関係があるのかもしれません。新しい物を見れば見るほど、どんどん過去のものになっていくそれらが、よく見え始めてくることがあります。新しい物を見る行為が、過去の物に新鮮さを吹き込むのは何故なのでしょうか。例え、一時的に尖りが食い込み始めて嫌になっても、新しい物を見続けることで、尖りと上手く間合いがとれます。そうすると尖りが刺さらずに、ただの鋭さとして見返すことが出来るようになりますから、また良さとして認識が出来ます。デザインとの距離が関係していそうです。

すぐ飽きても、多分それはそれで良くて、また良いなと思えるように寝かせといたら良いと思います。

行ってきました
雑記

19.02.25

昨日は、予告通り京都に行きました。ありがとうございます?で表現は適切なんでしょうか、お世話になっている方々のおかげで行けました。

にょろにょろで、どこに行ったのか分かる方もいらっしゃるかと思います。とりあえず、古いエアコンの設置跡が残っていましたから、その穴を利用してまずは基本に忠実?に、にょろにょろにょろさせております。

自分に出来ることを粛々と、みたいなありきたりな結論になってしまいますが、外に出てより強く感じました。やはり自分は、物は買って置く、並べるしか出来ないですね。部分最適しか出来ていないです。そうなりますと昨日見たものというのは、目標にしてはいけない憧れでして、あれにはなれない自覚から、そこから積み上げるしか無いなと痛感しました。そういえば小学生のときは「うちはうち、他所はよそ」みたいな、諦めを促すなだめられ方をよく親からされていたのをフワッと思い出しました。本当にその通りですね。

今度の日曜日は休みます
雑記

19.02.22

先週お越しいただいたお客さんには、直接お伝えしておりましたが、次の日曜日は本当に休みます。日帰りで京都に行きます。ついに暇なので、行ってみたかった店に行こうと決心がつきました。自分も外に出てみようかなと。ちなみに眼鏡屋では無いです。後述に関連しますが、【良いメガネ】という大きすぎる概念を元に、大体争いが起こりますので。

暇なので、途中になっていた本も3冊ほどまとめて片付けました。その中から一冊。半年くらい読む手が止まっていましたが、なんとか読み終えることができました。

『考えるヒント3 小林秀雄著 文春文庫 2013年 p.275』

このページが掲載されている章は〈私の人生観〉でして、他の文庫で掲載もあります。その、写真とは別の文庫にて既に読んだことがありましたから、何となく気が乗らず、かと言って章ごと飛ばす気にもなれず。そうとは雖も、以前に「私の人生観」に遭遇したときには、まとめ以外は上手く納得出来ず、ただただ冗長に感じたという記憶だけ残っていて。億劫ながら、でも今度こそちゃんと真意を汲み取るぞ!みたいな気概はあって…。最終的には半年以上、今の今まで放置でした。

ときに億劫ではありますが、同じ本を読むことは割とオススメだったりします。記憶が定かではありませんがおそらく10年くらい前です。NHKの番組『視点・論点』で安藤忠雄さんが出ていた時に、番組中ひたすら「本は3回読みなさい」と仰っていて、建物の話をしないという衝撃的な回がありました。それ以来、ぼちぼち本を読み返す様になりました。

やっとのことで今回、〈私の人生観〉の章を再度読みましたが、おそらく納得出来た箇所が増えていた気がします。時間に任せる、何かしらの経験が理解に際して何とかしてくれることはあるみたいです。同じ本を時間を置いて読み返しますと、それをもろに実感出来ます。

写真は、このような文章になっています。以下、抜粋します。

“思想は抽象的な図式と変じ、大地に立つ足を失った。図式は、理解力という人間の一能力にしか応じる力を持たぬから、賛成と反対以外に何事も起こらぬ。これは一見まことに気楽な光景であるが、実は恐ろしい事が起っている。例えば、平和だとか、人道だとか、自由だとかという観念は、万人の望む普遍的な観念である。併し、それが単なる観念である限り、人々を沈黙させ共感させる力はない。だから、人々はそこから喋り始める。誰も彼もが合理的に喋っている積もりなのだが、もともと厳密に出来上がってはおらぬ定義から出発したのだから、曖昧な系が幾つも幾つも生ずる。つまり平和という観念は、遂に論戦を生まざるを得ない。そんな道を辿るという事が、一体、人間が思索をするという事なのか。例えば、ベエトオヴェンのシンフォニイは、彼の思索が実った思想とも言えましょうか。彼の思索とは、音という「物」の新しい秩序をどうして創り出そうかと苦心する具体的な技術である。彼のシンフォニイは、彼の技術と一体となった、音という実在の世界に関する彼の vision、彼の観を現す。聞くものはこれに共感し、共感はその人に平和を齎す。論争の出発点となる様な平和の観念など現してはいません。人々は彼のシンフォニイから、空論に向って出発する事は出来ない。それは、もうその先きのない、行き着く処に行き着いているのである。”

物に全部込めて、本当にそれで全てということと、読み取りました。ちょうど年末くらいからそんな事を考えておりまして、そして、そんな事を考えておりますと、あれこれブログに書くポテンシャルが無くなり、結果としてメガネだけひたすらアップしておりました。それこそが正しいのだろうなと、その実践をしておりました。今までの物を読み返すと、きっと恥ずかしいのだろうなと思いますので、それは読み返さず、ただブルバキの為に残しておいています。都合よく無かったことには出来ないですからね。

あれと同じフロアで買えます
雑記

19.01.22

水飲み鳥を買いました。名駅のハンズの10階で買えます。同じ階で、あのチョコのイベントが開催されております。あの列の長さを目の当たりにして、ただただ羨ましくなりました。あれと比較したら、ブルバキは暇の極みです。

現在も、これが新品で買えるということに驚き、衝動買いしました。昔から営業しているお店のディスプレイで、たまに干からびていたりします。それで何となく見たような記憶があったのかもしれません。

まじまじと店で観察しますと、シンプルなデザインの極みであることに感動します。まさにこれがシンプルということか!と、一人で納得していました。さまざまな物理法則・現象が、この一体で無駄なく可視化されています。そしてそれは、柳宗理が要にしていた「親しみやすさ」に溢れています。完璧です。確かにかわいいなと、無限に見続けられますからね。

何より電池が要らず、水だけで反復運動し続けるというのも驚異的です。ウィキペディアで調べますと、原理等々詳しく解説されております。面白いです。

話が飛びますが、「過不足ない」みたいなことがシンプルさに通じているのかもしれません。以前にご紹介したような、例えば耳にかける部分が細いフレームを見たときに、一般的にはシンプルなデザインと称されると思います。それで良いんですけど、なんかこう、その表現ではしっくりこないところもありまして、そんなことを考えていた時に、この鳥がハンズで水を飲んでいる光景が目に飛び込んできました。

この鳥が水を飲むのを眺めて感じたのが、その過不足なくということでした。変な表現ですが、多くの物は削ぎ落とすという装飾が施されているという感じがするわけでして、鳥のおかげで、自分の実感に自分なりに説明がつきました。

ようやく買いました
雑記

19.01.11

店舗のハンコをようやく作りました。今までは、伝票も領収書も全部手で書いていましたが、場所が確定しましたし、その場所で一年以上続きましたし、新年早々思い立ちましてハンコでも作りました。店の名前、住所、電話番号が一緒に記載されて、尚且つ変更不可能な物があるという事が、妙に嬉しかったりします。普通の店の場合は、オープン前に準備しているものでしょうね。ということで、普通以下のことでも、ブログに書くくらい喜んでしまいます。毎日楽しいです。

もともと新栄で開店する際に、シャチハタの古いタイプのスタンプ台を頂いていました。写真のそれです。おそらく、オールドシャチハタはメタルの蓋で、現行はエコのスタンスから樹脂らしいです。

折角ならオールドシャチハタを活用しようという事で、スタンプとインクが一体化してない物を頼んでみました。他の色もあったのか、指定しなくとも、まさかのクリアブルーでした。透明で、生成りっぽく変色させたかったけど仕方なしです。むしろ、まだこのプラスチックの台座の物も作れるんですね。それだけで良しです。

「正しい印章 明るい日本」

と、紙袋に印刷がありました。そういえば当店で飾っています、古い眼鏡屋の看板も

「正しいメガネで 明るい世界」

という文言です。やや壮大で胡散臭くて個人的にはかなり好きなフレーズだったりします。こういうフレーズにも、やはり流行り廃りがあるっぽいですね。

ほとんど何も出来なかった正月
雑記

19.01.07

大体正月といえば本を読み漁るか、眼鏡関連で見ようと思っていた映画を見るか、この二択で過ごすことが多かったですが、今年は殆ど何も出来ずでした。唯一、映画のファイトクラブだけは見ました。

まさにこれは、暇と退屈の倫理学の映画版ですね。結論が違いますが。アイデンティティの問題にも言及している感じですから、とにかく深くて面白い映画でした。ただし、ややバイオレンスですので、正月の平和ムードには合わなかったですね。色々反省です。

年末分は、大体加工し終わりました
雑記

19.01.07

年末分は全部完了です。年始分は、度無しは全部完了です。振り返りますと、ブログの更新もしっかり出来ないくらいでしたから、忙しかったかもしれません。ありがとうございました。

もうすぐブルバキは3年経ちます。新栄の店は1.5年です。3年前の今頃は、開店準備という名の手持ち無沙汰でして、ただただひたすらに悶々としながら、為すこともなくゴロゴロしていたと思います。

そのゴロゴロのときに、何を考えていたかなといいますと、『3年後に、どのような状態だったらブルバキを畳むか?』みたいなことを考えていたはずです。そういえば、そろそろその3年を迎えようとしていました。今まで忘れていたくらいですから、もちろん2019年も続投です。なんかもう、閉店みたいなブログになっていますが、ちゃんと続きます。これは、2019年も頑張るぞ!的な内容です。

機が熟すのを待っている状態なのか、惰性で続いているだけなのか、3年後にどうやって自分で判断するのか。どうやって見切りをつけるのか、続けられると判断するのか。丁度そのときは、「始めるのは簡単だ」みたいなことも各所から言われておりました。たしかに、その通りだなとも感じていました。それよりも続けることが難しいんですよね。これは多分、何事もだと思います。ならば続けるか続けないかの判断をしっかりとしようと、ぼんやり考えていた気がします。難しいが故に、ズルズルと引きずって、肉が削がれて骨が見える状態まで痩せ細ってはいかんですからね。

おそらく当時考えていたことは、金額による判断では無かったはずです。始める前から数字の精度を高めてもしょうが無いなと感じていましたので、ああいう状態なら止めるとか、ほにゃららの状態が続いたら止めるとか、そういうのだった気がします。先ほども書いた通り、いまこの時点でそれらを覚えていないということは、そもそも、やめる気が無いじゃんということなんですけどね。実際、メガネしか私には無いですからね。

今日から仕事始めの方が多いと思います。昨日は、その前に挨拶に来てくださった方が多くて嬉しかったです。ちょっと嫌な日常が始まる前に、ブルバキで束の間の安息を得ようとして下さる方がいらっしゃるということが、店の存続を保証してくれている気がしました。それを言うなら、年末の挨拶に来てくれた方もそうですし、普段店にも来てくださるのにイベントでも会いに来てくださる方もそうですし、ということは全ての来店が該当する気がしてきます。ただ、昨日は際立って「続けて良さそうだな」という実感を得られたのは間違いありません。そのときに、フワッと3年前の悶々を思い出した次第です。

ブルバキは、2019年も低空飛行を続けていきます。おそらく冬を越えたら、ヴィンテージ品の入荷だけでは無い、あれこれ新しい変化がありそうです。まだまだ頑張ります。

昨年は、お世話になりました。そして本年も、お付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。

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