こういう本が、ちょうど欲しかった。来年は買います。
メガネ界隈は、10月に一番大きな展示会が東京でありますから、そのタイミングでどこで何がやっているのか一目でわかります。去年は、デュシャンを諦めてヴィンテージのメガネを見ちゃいましたが、今年こそは美術館に行こうかなと。あと、いつも通りドーバーでお上りさんするのもセットでしょうね。
それとか、8月の盆休み周辺と条件を固定したときに、見たい展示から行きたい県を決めるのにも有効そうです。そんな余剰あるかなー。
19.04.18
こういう本が、ちょうど欲しかった。来年は買います。
メガネ界隈は、10月に一番大きな展示会が東京でありますから、そのタイミングでどこで何がやっているのか一目でわかります。去年は、デュシャンを諦めてヴィンテージのメガネを見ちゃいましたが、今年こそは美術館に行こうかなと。あと、いつも通りドーバーでお上りさんするのもセットでしょうね。
それとか、8月の盆休み周辺と条件を固定したときに、見たい展示から行きたい県を決めるのにも有効そうです。そんな余剰あるかなー。
19.04.09
しゃがんだら、右膝部分が破れました。前兆で、右膝部分の白い横糸が1センチくらい見え始めてはいましたが、最後はビリっとパックリでした。デニムは丈夫だから、街の膝が破れているのは全て装飾だと思っていました。ちゃんと自然に履き続けると破れるみたいです。
メガネだったらガッカリしますが、布だとさほど。不思議です。
19.03.29
本日より、再開致しました。
色々見ましたが、サン・ニコラス教会が衝撃的でした。先月の京都では、20年ぶりくらいに金閣寺を見に行きましたが、近いものを感じました。メガネでこれをやりたい。
「美を観念で終わらせない」
手帳から紙切れが出てきまして、おそらく銀無垢の1回目の生産が終わった頃のメモです。小林秀雄の本のどれかから抜き出しています。ということは、あのお客さんに小林秀雄を教えてもらってからだなと考えますと、2016年の年末くらいの紙切れです。何でも残しておくと、後になって面白いです。3年前は、もっと気張ってカッコつけていました。
19.03.17
作業しながら考える、音楽聴きながら本読みながら考える、作業と作業のちょっとした合間に分からなかったことを調べる、高校生くらいの一番集中力が持続していた時代に戻った感じです。あれこれかきたくて仕方がない。
ここ半年ほど、土日はお客さんの接客、対話で集中力を消耗するので基本は更新出来ていませんでした。いまは思考が止まらないですし更新の意欲も湧くので書いています。
「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤亜紗 光文社新書 2015年
見えるとは何なんでしょうね。直近の話でいえば、正しく見えているとか綺麗に見えているというのは、網膜の中心窩に光を当てるだけでは不十分なわけで、結局はその光を処理する脳みその鮮明さも要求されます。くっきり写っていても、脳でそれを見せなければ見えていないも同然です。
なんとなく目を開いて、なんとなく世界を鮮明に味わっている気分になっていましたが勘違いでした。いいタイミングで新しい処方と、この本を読んで気付けました。いまは、これまでの様々を見直したい気分です。
19.03.17
昨日は、まあまあ後頭部やら首の辺りが重かったので、メガネの度数変更の影響があった模様です。ただ、その箇所の頭の重みですと、視野中枢が関係していますから、「脳みそがメガネに慣れようとしているな、よしよし」くらいな感じで一日過ごしておりました。頭頂や側頭の痛みはなかったので、本来的な意味での矯正による、痛みがあったのだと思います。今日はスッキリ。
塚本快示さんの器を改めて眺めていましたが、表面の均一な滑らかさ、微細な凹凸と溜まりの濃淡による絵の表現と、こんな感じだったかなーと感動。立体視が回復しているなという先入観も込みの所感ですが、それわかった上で、ほほぉーという感じです。
19.03.17
中動態の本、あとがきがとても良かったです。この姿勢を真似しなくては、という背筋がピンとなる終わりでした。
同業だったり横のあれで話していますと、例えばメガネ全体をどうしていこうか?という話し合いをしている感覚が無く、ディベート形式に陥りがちで、どちらがイニシアチブを取るかみたいな顛末を迎えがちです。
具体的な流派の一致ではなくて、その前に問題意識が共有出来ているかどうかですね。んーなるほど。
19.03.08
例の映画、ブルバキから徒歩3分くらいの距離にある名演小劇場で見ることができます。おそらく、インスタで載せれば商品のメガネよりも、修理に3時間費やした渾身の電動pezよりも、いいねを稼ぐのは間違いないので、ブログにて。
ルーペを頂いたことが一度きり、服を自分で購入したことがありませんから、そんな自分が見たところでどうかなと思いつつ鑑賞してきました。
細かいことはよく分かりませんが、とりあえずCAZALを掛けて行って正解だなと感じました。中・高と制服着用の学校に通っていました。今も昔も変わらずイケてないグループでして、学生の時に制服を着崩すという通過儀礼を通りませんでした。いまさら、それに近い心情を味わうことが出来ました。
映画の中で終わりがけ、マルタンは本当は楽しくなかったんじゃ無いかなというような推測がなされます。それこそ息を吸うように創造をしてきた人にも、そんな瞬間が訪れるのだなと呆気にとられてしまいました。
カタカナでクリエイティブといえば、何となくカッコいいくらいの印象しか抱いておりませんでしたが、もう少し恐ろしい行為なのかもしれません。行為に取り憑かれる、取り込まれる寸前までコントロールして自身を持っていかないといかんのでしょうね。少なくとも楽しい、楽しくないを超えてはいそうです。
そして、名演小劇場さんがすごいのは、同時期にアール・ブリュット関連の映画を2作上映するということで、創造について一層見識なのか理解なのかが深まるようになっていることですね。「描きたい、が止まらない」の方は、都合上、営業時間を縮めて観に行かないといけないので、困ってしまいました。
19.03.05
色々、製作でキリキリしているせいか、ブログやらに逃げる機会が増えています。商品だけ載せとくことがお店としての正義と分かりつつ、冗長な日報が続いております。早速守れておりません。
作為とかその周辺の話になりました。日曜日に何だかんだ5時間くらいはそれについての対話になりましたから、自分の為にも反芻しようと思っています。フレームの製作に食い込みつつあるということで、一度は考えるべきことかなと感じてはいました。
無作為がウリの物が増えた気がします。私が初めて、それがストロングポイントになっているのかと感心した機会は、2年くらい前の服屋のイベントでした。特別展示・販売の催事でして、障がい者支援施設で作られた服やカバンを見たときでした。色彩が豊かで、構図や構成が爆発的で非常に力強い印象が記憶に残っております。
その会場で、頻りに耳にしたのが「無作為で良い」という賞賛でした。販売する方も見る方も、それらないし作り手を無垢とし、現実に汚されていないからこそ生まれる「無作為」の産物として眺めておりました。
ただ、私に関して言いますと、同じように感動はしました。その上で、無作為かどうかは分からないなと思った訳です。健常者(この境界の用意の仕方が上手くいかない、問題があるのは承知ですが、今のところ思いつかないので勘弁してください)から、言語(思索)を通じてそれが分析出来ない、会話を通して確認出来ないというだけであって、綺麗に描いてやろうとか、生きている楽しさを色彩で表現しようとか、言語化されていない何かが、製作者の脳にあるかもしれません。ノーマライゼーションの観点から、同じ人間として対等にお付き合いをするのであれば、作為があってそれを形にしてやろうと頑張った結果と認識した方が自然な気がしました。むしろ相手を無垢なものと決めつけますと、往々にしてプラスのシャッターが下りる気がしております。
近い体験を、私自身の記憶から。幼稚園の年少か年中だと思います。母親の似顔絵を描くということで、緑のクレヨン一色で顔面を描いた記憶が、朧げにあります。なぜ覚えているのか。それは、その後に幼稚園のみんなでそれぞれ飾ったときに、おそらく塾で絵の教室に通っている子の絵と比較して、とても恥ずかしくなった事を憶えているからです。輪郭を肌色で、口を赤で、目を黒で、、、あーそういう事かなるほどね的な、言語化されていない何かを感じて、恥ずかしくなったわけです。正確には、その場で恥ずかしさのマックスを迎えたというよりも、迎えに来てくれた親に絵を渡すことが非常に嫌になった記憶があります。
今となっては、あのときの私に“上手く描いてやろう、綺麗に描いてやろう、正確に描いてやろう!”というような作為があったのかは判然としません。それ以前に、そこまで思考と言語が整備されていませんから、意識に立ち込めていないと考えられます。
ほぼ30年前のことに対しての推測になります。私が幼稚園生のときは、色と言えば緑でした。緑色が大好きでした。服に目覚めて紺色が好きになるまで、一番は緑色でした。ですから、好きな母親を、どうせ描くなら自分の好きな色で描いた方が好き同士でいいなぁ、というような、言語化される前のレベルで脳内で結合した何かがあったのかもしれません。言語を用いて、意識として立ち込めていなかっただけで、作為は存在したと考えられなくはありません。
要は、意識にあるか無いかで作為的かどうかはイマイチ判断がつかない訳です。そうなりますと、考えていなくても作為が含まれることがあるわけです。よって無作為というものは、かなり得難く難しい到達点と言えるのでは無いでしょうか。親しみがある言い方としては、悟りという言葉と同値かもしれません。それは、もはや生きているうちに実現出来るかどうかも定かではありません。
そこで、昨今の無作為たちはどのように捉え直したら良いのか?という話になります。これが日曜日の対話の核でした。前段では無作為というのは、作為を消し去ろうとする努力に、垣間見える機会があるという流れでした。これと比較して考えてみます。
極端に、例えばいまパッと作った物と、極致的な無作為とどう区別するか。物が出来るまでの、製作の姿勢に違いがありそうです。パッと作った物は、製作に臨む姿勢を想像するに、どうしても消えない作為を、それでも尚消し去ろうという努力では無くて、見なかったことにして蓋をしているように思われます。調べてみると、法律のことばで「不作為」という語がありました。
不作為:現実の事実・事象に対して積極的に働きかける行動をとらず、それらの事実・事象を放置すること。(ウェブより抜粋 世界大百科事典 第2版)
八割くらい、しっくりくるような言葉が見つかりました。だいたい、言い得ているような気がします。追求の放置です。つまり現在は、無作為と不作為がごっちゃになって使われている状況なのでして、消去せず置去りにすることが増えたということになります。
ならばもう一度、作為が含まれる物、無作為な物、そして不作為な物なのかを自分なりに選別し、吟味することが迫られます。もちろん、上手く分類出来ない物も存在するでしょう。しかしそれは、最終的に不作為を検出し排除することを目指しておりません。不作為でも自分なりに良さが見つけられるなら、それで良しということだと考えています。例えば表出する側が、それを知らずに全て無作為と称しているだけかもしれません。また、何事も緊張と弛緩のバランスと考えますと、不作為な物こそ自分にとって大事となる瞬間が、人生の其処彼処にあると思うからです。
19.03.03
暇と退屈の倫理学から、次の本に読み進めております。確定申告云々が終わり、ようやく先週から読みはじめました。木曜日は熱で1日ダメにしてしまったので、まだ半分ほどしか読めていません。
今の時点でひとつ、感想とか解説じみたことなぞとも思いましたが、おこがましくて書くことも出来ません。読んでいて自分は、ちゃんとわかってんのかなー??という曖昧さの連続です。とりあえず現段階での気分としましては、
「あんまり深入りすると、販売とか接客のあれこれが全部気になって、身動き取れない」
という感じです。意志なのか選択なのかみたいな話題周辺も、相当ブルバキ自身が揺らぐ内容でした。接客とは、買うとは、選び取るとは、勧めるとは、、、。んーーー。
最後に、あの倫理学のような救いまではいかなくとも、実践における指針みたいなものが垣間見えてくるのでしょうか。それが楽しみで、三章あたりでペースダウンしたものの、四章から再び相性が良くなったのか、もりもり読み進めております。
今の枠組みの中でスパッと割振れる、割振れないとは話が逸れるかもしれませんが、そういうことは、日々感じます。
物でよく言われるのは、「物の価値は、お金ではない」みたいなことでしょうか。高い物を指して、高ければ良いものという訳ではないことを述べるときに、よく言われている気がします。ブランド物に関しても、同じように語られ、揶揄される傾向にあると思います。
ただし、その時点で実際は、物をお金のフィルターを通して見ている訳ですから、両者とも大きな差は無いように思われる訳です。では、物を見るときに、(高い・安い)と、(良い・悪い)の組み合わせで見ることから解脱するにはどうすれば良いのか?みたいなことを考えています。
19.02.27
シンプルなもの、ベーシックなものを買うべきか、それともデザインが盛り込まれたものを買うべきか?みたいな相談をたまにうけます。そもそも、シンプルであることとベーシックであることは同値なのか?シンプルとは何か、ベーシックとは何か。デザインとは何を指しているのか等々、どちらにするか云々の前段階で、すでに考え出したらキリがないです。その時は、そういう相談ではない事を瞬時に察して、とりあえず迷ったら素朴な方か派手な方かどっちにします?的な質問に回答を致しました。迷ったら楽しい方です。
よく、デザインが激しい物に対して言われる「デザインが入ったものはすぐ飽きる」について、これってどうなんでしょうね。本当に特異的なものであれば、いつだって際立っていますし、いつだって良いなあと感じる様な気もしてきます。飽きるのではなく、その尖りが嫌いにはなりそうですが…。
驚くべきことに、平成レトロという言葉が生まれたそうです。まだ実際には、店頭で飾ってあるファービーに対して「平成レトロ」と言われたことがないので巷での浸透度は謎ですが、その表現には納得です。ファッションの世界では、90年代が焼き増しされ始めました。ロゴ物やハイテクスニーカーの潮流が力強く続いております。そういう私も、まだちゃんとエアマックス95を履いております。
まだまだ眼鏡業界では店も私も若造ですが、そういえば30代に入っています。30代と20代の違いは、今のところほとんど認識しておりませんが、おそらく懐かしく感じる機会の多さだと思います。それに関しては圧倒的に増えました。エアマックスもそんな感じで買っていますし、今は、あの頃のPEZをもう一度という気分でして、捨てたことへの後悔の最中です。
それらの懐かしさは何で生じるのだろうかと考えていましたが、おそらくそれこそ見ることに関係があるのかもしれません。新しい物を見れば見るほど、どんどん過去のものになっていくそれらが、よく見え始めてくることがあります。新しい物を見る行為が、過去の物に新鮮さを吹き込むのは何故なのでしょうか。例え、一時的に尖りが食い込み始めて嫌になっても、新しい物を見続けることで、尖りと上手く間合いがとれます。そうすると尖りが刺さらずに、ただの鋭さとして見返すことが出来るようになりますから、また良さとして認識が出来ます。デザインとの距離が関係していそうです。
すぐ飽きても、多分それはそれで良くて、また良いなと思えるように寝かせといたら良いと思います。