カテゴリー:雑記

常々思うこと
雑記

16.09.10

モノよりコトの時代と言われて久しくなりました。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

学生時代から店を構えるまで、モノ中心の生活を送り、今もモノを販売している身でもある以上、この関係性について考えることは多々です。

そもそも「モノ・コト二元論」なる考えが正しいかどうかを考察するべきでは無いでしょうか?

今、手元にモノがある。そのモノは欲しいと思った瞬間に立ち現れること無く、店で買う等々のコトを介在して手元にあるわけです。つまり、コトとモノは切り離せず、あくまでも融け合っているのでは無いでしょうか?前の言語ゲームの回の、量子力学の例で出した光のように、どちらかを観測するとどちらかの性質は失われ、そのもの全体が放つ良さが壊れてしまう気がします。

あれこれごちゃごちゃ申しましたが、例えモノ・コト二元論だとしても、良いモノを買った後に生じる、モノとの長い付き合いというコトも、即効性は無いですが、じんわり効いてくると思います。

あいちトリエンナーレ
雑記

16.09.06

最近の美術館は、撮影可能なところが多いですね。時代の流れに沿った対応ということでしょうか?

撮影される作品、するひと、空間を観察しまくってなんとなく感じたのは、結局のところ撮られてもへっちゃらなんだろうなということでした。

作品に用いているものが、日常生活で見かける物とか必ずしもそれ自体が不変的な美を備えている訳ではなくて、美術館、古い建物、アートのお祭りというムード云々も合わさって作品となっていると感じます。ですから、対象だけ切り取って写しても、ただの物なんでしょうね。デュシャンの泉でしたか?を深化させて、作品としての価値を空間にまで拡散させたように感じました。

量子力学の世界に近いかもしれません。重ね合わせて存在し、どちらかを観測してしまうと、一方の情報が壊れてしまうところは特に。高校物理の光の波動性と粒子性を思い出して懐かしくなりました。

昨日の言語ゲームの考え方も、まだ頭に残っています。もしみんながせーのっで、アートとしてふるまうことを停止した時に、それでも尚、ひとを惹きつける何かが残るのかどうか。それも見越して存在しているはずであって、そう考えるとアートが非アートもアートとして飲み込む力強さにただただ感嘆するばかりです。

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