カテゴリー:雑記

メガネの日と目の愛護の日
雑記

16.09.30

明日10月1日は、10/01の表記がレンズとテンプルの組み合わせに見えることから、メガネの日です。目出度いですね。

そして10月10日は、90度傾けた姿が眉毛と目の組み合わせに見えることから目の愛護の日だそうです。歴史は割と古くて、こちらは1931年から。

ここで、冒頭の本の登場です。1942年、対戦中に出版された貴重な本が手元にあります。発行部数は5000。石原式と書くと、業界人には通じるかもしれません。

ここには、9月18日を「眼の記念日」とすると書かれています。明治天皇のエピソードとともに、明治11年(1878年)に定まった様子が描かれています。

ただ、ウィキペディアでも載っておらず、こうやって風化していきつつ新しいものに塗り替えられて歴史の層を作っていくんだなと感じる次第です。

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タイムリープから思うこと
雑記

16.09.28

ものすごくベタに、映画「君の名は。」を見ました。確かに、綺麗な映像でした。特筆すべきはツヤ感と、光の透明感ですね。良かったです。

タイムリープ(時間跳躍)が仕掛けとしてあって、それに関してあれこれ見た人同士で議論がなされていると思います。

一つ、全てが上手く説明いかないのは、物理学的な時間解釈が完璧に時間を説明し尽くせないからでしょうね。一本の線で表現する「過去・現在・未来」のアレです。

ベルグソンという偉人がいます。1900年ごろに活躍した哲学者です。自然科学が世界を変え始めたときに、それでもなお、自然科学では解析し得ないものは何かを探求し、自然科学に抵抗しました。人間性みたいなものが、科学で全て説明出来るわけないだろうという感じです。時間もそのテーマの1つ。

ニュートン以降、時間は一本の線で表されるとされてきました。アインシュタインの誕生で、時間と空間が同一と見なされ「時空」と扱われるようになりましたが、概ね変わりはありません。私たちは、時間を左から右に流れる直線として想起します。

ベルグソンは、そういった時間の解釈を知りつつも、独自の時間論を提起します。それは、単位を持たず、互いに並列可能でない、直線ではなく融け合った時間です。つまり、一人ひとりの人生と切り離せない、融け合って後と先を区別できない時間です。純粋持続と言います。

確かに、自然科学は社会に大きな影響を及ぼしています。時計に従えば、みんなが同じタイミングで集まることが出来るので便利です。ですが、便利で有用だからと言ってそれが本質・本来の在り方とは限らないのでは無いでしょうか?

時間から飛躍させて。例えば目の前に、異なる質のメガネが2本あります。ただそれは、質の違うメガネが2本あるというだけなんです。さらに、例えば1000円と10000円だったとします。でもそれは、2本のメガネを見る、さらにそこから1本を選ぶという際に、本当は関係のないことかもしれません。もちろん、買う際には社会で決められているステップを踏まなくてはいけないので、支払額の差はあります。ブルバキも、もちろん価格の差はあります。ですが眼前には、あくまで質の違うメガネが2本あって、それは価格が10倍違うから、他方より10倍良し悪しということとは、別の話であるという考えも出来るわけです。

ものすごく長くなりました。要するに、理想論ですが、モノのあらゆる要素を数値化して、数値であるが故に比較が出来ると思い込んでいるだけなのかもしれません。そうではなく、あくまで質の違うそれぞれが眼前にただ在るという考えもありますよということです。

自分がそうでした。数値とか言語化された要素の多さで比較をしがちな人間でした。ただ、質に集中するようになって、惹かれる方を選べるようになりました。比較して良し悪しではなく、それがどう良いのか?に目が向きやすくなったという感じです。そうすると、予期せぬ良いものに出会える機会が増えて楽しいわけです。

引き続き「人間の建設」から
雑記

16.09.26

もう50年くらい、物を生かすということを忘れた時代なんですね。

今読んでいる本
雑記

16.09.25

『人間の建設  岡潔 小林秀雄 新潮文庫』

奇跡の対談ですね。

小林「好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。」

凄すぎる。2ページ目には、もうこの内容です。

メガネにおいて、良き導き手とはどうあるべきか考えさせられます。メガネに限らず、好きなものが増えることは豊かですからね。未知から既知に、さらなる未知を求めて難解な道に次々進む過程は良いものです。

メガネとかその周辺で思うこと
雑記

16.09.17

キレイとか面白いとかスゴイという感覚からスタートしたい、そこを大事にしたいなあと考えています。オシャレとの距離感は常に葛藤になるので、難しいなと感じるときも多々あります。

頂きもの
雑記

16.09.14

幸水しか食べたこと無いかもでした。包み紙がでらシャレてます。

常々思うこと
雑記

16.09.10

モノよりコトの時代と言われて久しくなりました。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

学生時代から店を構えるまで、モノ中心の生活を送り、今もモノを販売している身でもある以上、この関係性について考えることは多々です。

そもそも「モノ・コト二元論」なる考えが正しいかどうかを考察するべきでは無いでしょうか?

今、手元にモノがある。そのモノは欲しいと思った瞬間に立ち現れること無く、店で買う等々のコトを介在して手元にあるわけです。つまり、コトとモノは切り離せず、あくまでも融け合っているのでは無いでしょうか?前の言語ゲームの回の、量子力学の例で出した光のように、どちらかを観測するとどちらかの性質は失われ、そのもの全体が放つ良さが壊れてしまう気がします。

あれこれごちゃごちゃ申しましたが、例えモノ・コト二元論だとしても、良いモノを買った後に生じる、モノとの長い付き合いというコトも、即効性は無いですが、じんわり効いてくると思います。

あいちトリエンナーレ
雑記

16.09.06

最近の美術館は、撮影可能なところが多いですね。時代の流れに沿った対応ということでしょうか?

撮影される作品、するひと、空間を観察しまくってなんとなく感じたのは、結局のところ撮られてもへっちゃらなんだろうなということでした。

作品に用いているものが、日常生活で見かける物とか必ずしもそれ自体が不変的な美を備えている訳ではなくて、美術館、古い建物、アートのお祭りというムード云々も合わさって作品となっていると感じます。ですから、対象だけ切り取って写しても、ただの物なんでしょうね。デュシャンの泉でしたか?を深化させて、作品としての価値を空間にまで拡散させたように感じました。

量子力学の世界に近いかもしれません。重ね合わせて存在し、どちらかを観測してしまうと、一方の情報が壊れてしまうところは特に。高校物理の光の波動性と粒子性を思い出して懐かしくなりました。

昨日の言語ゲームの考え方も、まだ頭に残っています。もしみんながせーのっで、アートとしてふるまうことを停止した時に、それでも尚、ひとを惹きつける何かが残るのかどうか。それも見越して存在しているはずであって、そう考えるとアートが非アートもアートとして飲み込む力強さにただただ感嘆するばかりです。

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