カテゴリー:雑記

静物画のこころ
雑記

17.01.26

「静物画のこころ展」刈谷市美術館
2階に、おそらく刈谷市の絵画教室の生徒さんの展示もありました。教室に通う小学生の絵のコーナーも設けられていました。それがまた良かったです。それについてちょっと書きます。

これもおそらくなのですが、同じ題材にて各人が絵を描いておりました。テーブルに青と白のストライプのクロスがひいてあり、バゲットとポットとバスケットとリンゴが配置された静物画です。絵画教室の授業で、生徒それぞれが描いたのでしょう。

多くの子が、朝食とかティータイムという語を、題名に用いているなか、ひとりだけ「楽しい’時間’」という題名をつけている子がいました。不意打ちの不意打ちでしたから、それはひどく驚きました。

静物画の何たるかを、その子の絵と題名で学べました。対象をそのまま描いているわけでは無くて、そのテーブルが実在したと想像したときの空気感やテーブルを囲むであろうひとが、描かずに描き出されているということなのでしょうね。それがまさに、企画の言う「静物画のこころ」ということなのでしょう。

そして、’食卓=楽しい時間’という連想を私自身に当てはめた際に、楽しいとか豊かという感覚に乏しいなという反省の感情が沸きました。逆に描いた子は、食卓が楽しいという認識があるのでしょう。今のわたしは、どの時間帯の飯も、1人だったりパパッと済ませたりすることが大半です。確かに小学生の時は、朝以外は十中八九誰かと食べていましたし、会話しながら食べていたなと記憶しています。

勘繰り過ぎなだけかもしれませんが、勉強になりました。

最近の楽しみ
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17.01.23

100分de名著を見るのが、特に楽しみです。今は中原中也さん。

数学の流れから岡潔さんにハマり、その後お客さんに教えていただいて小林秀雄さんにハマり、小林秀雄さんを読んでいると、どうしても中原中也さんが避けられなくなってきたなぁ、というタイミングでのテレビでしたので、初心者としては嬉しい限りです。

詩を読むのは初めてです。読んだときの、例えば、メガネにおける光学理論の理解とは異なる、わかるという感覚の、まさにこれを共感と指すのか、じんわり感がいいですね。

この冊子を読んでいると、中原中也さんと大岡昇平さんの関係が、ゴッホさんとゴーギャンさんの関係と同様であるとあり、ちょうど愛知県美術館にてゴッホとゴーギャン展が開催されておりますので、タイミング良くてありがたいです。

振り返ってみて
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17.01.19

なんだかんだ感性が等々書きましたが、言葉を用いたということは、その時点で論理的だなと反省しております。偶然を語ろうとすると、必然的な言葉ではどうしても捉えられないというのと同じような感じです。

綺麗なときは、それ以上に言えないなと思いつつ、言葉を捻り出すのですが、どうもしこりが残ります。言い表せていないといいますか、なんというか。

3日がかりくらいで思い出せた
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17.01.18

ダイアログインザダークでした。すっきりしました。

お客さんとの会話の中で、ぼんやりとこの話になりました。その方は羨ましいことに、実際に参加されたことがあると仰っていたものの、そのときはお互いに名前が出ずじまいでした。

たしか私は、4・5年前に何かで知ったきりで、参加したことはありません。就職する前で、まさか自分がメガネとか見えることに従事すると思っていなかった頃に、こんの取り組みのことを知ったと思います。

今は猛烈に参加してみたいですね。仕事柄というのもありますが、前のブログのように、眼以外で見るということへの興味があります。外的な刺激によって引き起こされる感覚が、脳に映像をもたらすのであれば、それも見えていると言えそうですので。

ダイアログ・イン・ザ・ダーク

 

ある
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17.01.18

お客さんからの頂き物。

「ある」(観察と編集 発行)

バックナンバーを4部くらい頂きました。東京で整体をされている方と、編集者との対談です。今年の3月で、3年間に及ぶ対談が終わり、全て製本されて販売されるそうなので、それを買ってみようかなと思いました。

一つひとつのテーマに沿った対談の内容も面白かったのですが、共通して面白かったのは、身体感覚から感情が引き起こされうるというようなニュアンスが感じられたことです。

 

検眼も、同じようなことが考えられます。ただ、視力が出るだけ、遠くの切れ目が判別出来るようにするだけでは無い、巷のとは違う検眼についてです。

過矯正の内斜位の場合などは、常に自律神経が働きっぱなしであり、無意識に緊張状態が続いたまま生活をしていることになります。

視力重視では無くて、眼位や両眼のバランスを重視した処方により、集中力が増したり過敏さが減少したりする可能性もあるのでは無いか?というのが、私の検眼での考えです。

ある程度の視力が出れば、そっから先の視力と認知との相関関係は強く無い、という報告を人づてに聞いたことがあります。元の論文にたどり着けていませんので、何とも言えませんが。

実際に仮枠で試すときも、完全矯正(ないし若干の過矯正)よりも、度数を緩めて眼位にあったプリズムの処方により、より一層見える実感があるという声をいただいております。この場合、ランドルト環での視力チェックでは、片目で0.7出ていないことは多々です。旧度数より落としても見えるという場合もあります。

見えるということ、それに対してどのようなレンズを処方していくか。そしてその処方は、見えやすくするだけでは無い効果を、良くも悪くももたらす可能性がありますので、メガネ屋としてはやはり一番気合が入ります。そして、物凄く大げさに表現すれば、その人を変える可能性があるということになります。非常にやり甲斐がありますね。

「見える」という言葉が、注目が向けられたらハッキリ見えるとかそういうニュアンスでは無くて、ぼんやりでも脳で認識されているという感じですね。

気ままにやる
雑記

17.01.17

初めて、映画フットルースを観ました。フットルースとは、気ままにという意味なんですね。

1984年の映画だそうで、車とかラジカセがカッコ良かったです。ゴツくてカクカクした感じです。

出てくるメガネのバリエーションが豊富でした。学生は80年代を象徴したセルのボストンやツーブリッジ、エキストラのお婆ちゃん達は70年代のビッグサイズフレーム。今のグッチみたいなメガネですね。主人公の親父というかちょっとよくわからないポジションの人が30〜50年代くらいのフルビュー(メタルの金,ボストン型)を掛けていて、それも渋くてカッコ良かったです。

個人的に一番メガネでぐっときたのは、開始45分位で登場するお婆ちゃんが、ローデンストックのカールトンみたいなメガネを掛けていて、それにブラウンの50パーセント全面の色のレンズを入れています。

曲もダンスも良いので是非。ついでにメガネも注目してみてはいかがでしょう。

 

カッコよさとか面白さとか美しさとか
雑記

17.01.06

NHKの番組、日本のジレンマというものを見ました。

いまの時代を指す言葉として、「post truth」という言葉があるのですね。知りませんでした。客観的な事実よりも、感情的な判断とか共感が勝る時代をあらわした言葉だそうです。

それに関係しているようなしていないような感じの話です。メガネとか、広くファッションの場合、カッコいい(カワイイ)が一番の価値なような気がしています。当たり前なことですが、SNSのおかげでより一層強固になったイメージです。

ここで標題に戻りまして、美しいより面白いよりカッコいい(カワイイ)が現状は大事と認識されているので、これが反転できたら面白いだろうなと感じています。少なくとも、メガネにおいて出来たらというのが理想です。上下の反転よりも、横並びに認識し直すというイメージですね。

 

小林秀雄 「人生について 中公文庫」p.49から

「…美は、もはや真面目には考えられておらぬなどと言うと、現代の教養人たちは承知しまいと思う。成る程、展覧会場は、真面目な鑑賞者の群れで溢れている。私はそれを疑いはしない。併し…これらの人々が、現に経験しているその生き生きとした感情を、決して家まで持って還りはしまい、という考えであった。…」

明けました
雑記

17.01.01

おめでとうございます。無事明けました。

年末に、見ることや物の価値についてスタッフの方と話す機会がありました。それに近いことが書いてあったので、新年早々いいスタートだなと感じております。

小林秀雄著 人生について 中公文庫 p.33

「…自分の新しい一片の感覚にも、自分の古い全過去があると言うであろう。」

例えばこんな経験は、誰にでもあるのでは無いでしょうか。買ってみたものの、家で見たら結構派手で着なくなった服を、5年ぶりに見たら、かなり良いなと感じて着てみるですとか。逆も然りですが、逆の場合は流行という外的要因が多く占める場合があるので、はじめの方がより的確だと思います。流行に侵食されることも含めて感覚とすべきかもしれませんけどね。

つまり、これは救いのような言葉であって、すべての経験は無駄になっていないということです。物でも何でも選択する際には、人生の全てが物に投影されていくという感じでしょうね。

ここからが昨日盛り上がった話でして、ですからこの言葉を自分に厳しく捉えるのであれば、物を見てそれを良いと感じないのであれば、物の良し悪しを問うのではなく、自分を問うてみるということでしょう。少なくとも、その余地はあるはずです。

モノよりコトと言いますが、モノも人間の感性に問いかけています。ですから、提供する側の人間としては気が抜けないですね。ものすごく誇張して言えば、人生を変えるきっかけ位にはなる訳ですので。

ご挨拶
雑記

16.12.31

皆さま、本年は誠にお世話になりました。2017年も、何卒よろしくお願い申し上げます。

あっという間に一年が終わりました。昨年の2015年はメガネの道を極めるべく卸商社を辞め、ヴィンテージのメガネの店に入るもアレコレの方向性の違いから、いきなり解雇になりました。それが2015年の10月でした。そこから4ヶ月で、2016年の2月に店を開けました。今思えば、準備もほとんど整っておらず、何も無い中での営業でした。そして、よくその状態で自分で店をやってやろうと思い至ったなと、冷静に考えると恐ろしく感じております。あの状態で信じて話を聞いてくださった方、ご購入してくださった方には、感謝しきれません。ありがとうございました。

 

いまでもよく言われます。

「好きなことを仕事にしていていいですね」

的な文言です。確かにそうです。もちろんそうなんですけど、何か言い表されていないなと、その度に思います。好きなことを仕事にしたというよりも、せねばならないという感覚に近いです。

メガネ業界の大先輩から教えて頂いたこと、もらった物を、次に伝えていかないといけないと思ったからこそ、卸を辞めてヴィンテージの小売に行きましたし、そこで銀のメガネをブランド化しようと試みていました。残された物と、遺していきたいものの両輪でメガネ屋をやるという想いは、その頃から有りましたが、結局そこが上手く理解し合えなかったのだろうと思います。クビになって、直ぐに自分でやろうと切り替えられたのは、好きという気持ちだけでは無いと思います。

そして、その意気込みだけの人間を何とかして下さったのは、道具、場所、技術、等々を今でも授けて下さっている皆さんと、お客さんに他なりません。ブルバキの店名の通り、この店の存在は皆さんによって、益々強固になっていくのでしょう。本当にありがたいと感じております。

応援して下さる方を裏切らないように、2017年も初心を忘れずに精進します。メガネを面白いと感じていただけるように努力します。面白さとは、フレームデザイン、レンズ、メガネやその周辺の歴史、様々あるのでしょうが、話し合いながらそれぞれの面白さを見つけてくだされば嬉しいですね。

それでは、良いお年を。年明けは4日から営業です。

サンプラチナについて
雑記

16.12.22

本日、お客さんにサンプラチナのメガネをお渡ししました。

人がかけると欲しくなりますね。正直、サンプラチナの透明感には惹かれておりましたが、貴金属ではないという一点に於いて、気分が乗っていませんでした。それは、メガネが次世代に渡されていくということを想像した際に、素材そのものにも価値がないと遺されていかないのでは?と考えていたからです。

ですが、今回久々にまとまった本数を見て、サンプラチナだけでも20本ほどでしたが、相当心に響きました。ゆくゆくは銀と並列するかもしれません。銀のセカンドラインという認識をしていたのが間違いでした。

お客さんには彫金無しの物をお渡ししましたが、黄色味のない透き通った白の光沢は、なんとも言えない妖艶さでした。銀はちょっと黄色いです。

何社か、アセテートに対してのセルロイドのように、メタルフレームの場合は、チタンに対してのサンプラチナを作り始めています。レトロな素材ということで。ただ、サンプラチナなのにも関わらず柔らかいということは、サンプラチナにさらに何かを混ぜているのでしょうね。元は銀歯の素材なので硬いです。サンプラチナ自身も合金ですが、さらに混ぜているか、鍛える処理が甘いのか。詳細は掴めていませんが、柔らかいのと、あとはパッと見て光沢が鈍いので、今回お越し下さって見てくれた方は、他と見比べてみると面白いと思います。

美しさは、もはや時代錯誤なのでしょうかね。そうなのかもしれませんが、圧倒的に美しければ、それでもいいやと思えてしまいます。

個人的に、カッコいいかわいいは、陶酔する感覚があまりありません。美しいには陶酔する感覚があります。西田幾多郎の主客未分というやつです。おそらく。だから大事にしたいと考えております。

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