店を始めた年に製造された初号機なので、そうなりますと5年か6年くらい使ったことになります。銀無垢の丸メガネです。昨年に引き続き今年は、銀無垢のサーモントを使用してみてその変化を調べている最中ということもあり、丸メガネは家に寝かしがちではありました。なのでこの2年の使用頻度は低めです。
はじめ3年くらいは、磨いて常にピカピカをキープしていましたが、今は丸メガネに関しては磨かないことにして燻し続けています。とは言いつつ、気になる箇所は手で擦りまくって光沢を復活させている為、銀と黒ずみのグラデーションになっています。
メガネに限らずの感覚だとは思いますが、使って傷ついたら、使って汚れたらおわりみたいな雰囲気が年々増している気がします。微弱ながら抗いたいとはずっと思っています。最近驚いたことは、スニーカーの洗浄の専門店が続々と出来ていることで、オジサンからしたら汚れたら汚れるほどカッコいいと思っていたのでショックでした。おニューの靴とか言われると恥ずかしく感じるタイプのおじさんです。おニュー、、、それも死語かもしれません。
店を始めた当初は、抗い方としてそもそも変化しない、さらには劣化という概念が無いぞということを前面に出していた気がします。今ももちろん変わりはなく、銀とかサンプラチナとか金とか、無垢の素材の普遍性に惹かれ続けています。その中で銀は、やっぱり黒ずんで馴染むのが魅力だよね的な、シルバーアクセサリーの愛され方のスタンダードに還った気がします。そういう心持ちにしておくと、傷も汚れも全て加点で毎日加点で、やや気持ちが楽です。
最近読んだばかりのあの本です。強烈すぎて、今日も引用です。このこと自体は、ヴァージル・アブロー以外にもあれこれ言及があると思います。村上隆の超芸術起業論とかにも、ほとんど同じ構造の議論があったはずです。コンテクスト勝負とか、そういう表現だった気がしますが、忘れました。
この話は、ハイブランドにおける戦術のはなしだから、ノンブランドな私には関係ありませんと言いたいところですけどそんなことも無いぞと、この2年くらいは強く感じるようになりました。情報というのかコンテクストというのかストーリーというのか気にしませんが、もはや物が添え物、オマケになってしまっているように感じるときもあります。ブランドの方が、静かに物を販売しているようにも思えてきます。
引用箇所にラグジュアリーとありますが、現在のラグジュアリーと核となる“垂涎の的”の感覚とはズレているが故に、銀のメガネもくすんだり傷ついたりして各人が使用した痕跡がつくと金銭的価値が減ります。でも使ったら終わるんじゃなくて、使ったら始まって欲しいですよね。昔から使い込んで味を出すと表現しますけど、自分の為に消費することはとても贅沢ですしね。