久々に他人から服をもらいました。他人といっても自分の親でありまして、むしろ‘親から’という限定をつけると、高校生ぶりくらいかもしれません。土日で休みを頂いたときに、24時間で100キロ歩く大会がありまして、その完走記念です。久しぶり過ぎて照れました。
今振り返ってみれば、貰った瞬間に
- 明日火曜日の天気は?
- 明日火曜日の最高気温は?
- 気温が高めで、このシャツ一枚で外出が出来そうなら、それをメインに着て何処へ行くか?
ということを考えていたので、シャツも自分の好みでしたが、貰うということが大きな要素だったなと思います。それにしてもファッションは良いですね。気分の高揚感から外に出たくなります。
物そのものを直接体験するということは、実は怪しげです。反論として五感を使って、直に感じていると思うかもしれませんが、自分の五感が正しいという保証はどこにもありません。むしろ、五感というパーソナルな要素が関わる以上、他者と全く同じもの(脳の中の像として)を体験することは、出来ないと考えることもできます。物そのものとは何なのか、その有無もどうなんでしょうね。
と考えますと、背景やら色々な要素を消去して、物そのものを観ろと、ひょっとしたら以前のブログで大見得を切ったかもしれません。最近は少し自分の中で変化があり、背景なしの物は存在しないという考えです。だからこそ、頂いたシャツは、頂いたシャツでしか無いのです。頂いたから良いとか、その条件を除いて良いのか悪いのかではなくて、そうでしか無いのでしょうね。必ず、見る側である自己の持っている要素がつきまとってしまいます。
自分にとっては、本当は特別な物しかあり得ないのかもしれません。意識しているかしていないかの違いだけで。だとしますと、好きなゾーンの物は全て特別と思い込みたいなと思っています。