さまざまな方面で、短期間に立て続けに“価値を問う”的な謳い文句に出くわしたお陰で、今まで気にしていなかった“価値を問う”が急に気になっています。ブルバキも、黎明期はそんなことを言っていたかもしれませんね。
商品説明や作品説明で例えば“現代の価値を問う商品・作品”みたいに使われることがあると思うんですけど、よく考えてみると少しおかしい気がしてきました。現状分析として製作の動機として価値を問うことはおかしく無いのですが、制作結果としての商品にしろ作品にしろ、それらはその問いの答えであって欲しい気がします。暫定的でもちろん構わないので。
ものすごく端折れば、間違ってもいいんで、間違うとか無いと思いますが、答え聞きたいっすという気分になりました。
そもそも“問う”ということは、問う前にその問われるものが間違っているのでは?という心理が働いていると思うんですよね。個性とは?と悩んだ瞬間に個性の危機に瀕しているのと似ているように、健康なときは健康について考えないように。価値とは?と問い始めてしまった時点で、自分の価値観に歪みが生じているのか、それとも外の価値が歪んでいる(と思っている)のか、いずれにしましても何かしら上手くいっていないのか、なんか不満がありますよね。自分と価値の関係に問題無ければ、問わないですよね。最高の質問はそれ自体が答えであるものと言われますから(出処忘れました)、物に問いと答えがセットで内在していて欲しいわけです。問うで終わって後はご自由に…という場合でも、やっぱりそこに在るそれが、答えを表しているんでしょうね。そう言う意味での問うは、つまらないものですが…と同じ大人の処世術と同じです。問うなんて言われると、ちょっと威圧感があるような、強い雰囲気がある言葉な気がしますけど、つまらないものですがと同じと気付ければ、日本の謙譲の精神に繋がるので怖くは無いですね。
そんなことを考えていますと、そもそも価値・価値観が問われなかったことが一度でもあったのか?ということが、とても気になってきました。冒頭でブルバキも黎明期は…と書きましたが、例えば銀無垢の製作の動機としてそういうのを前面に出していたのであれば、それは当たり前過ぎたのかなと反省に繋がります。作るときに必ず用いる手段として自他の現状分析をしますが、ほとんどそれと同意義、そういうことなんですかね。
ということで自分もリセットして、次は何を動機にすれば良いのかなと模索中です。