店をはじめて分かりました。一番多い会話の端緒は、ここ始めてどれくらい?かもしれません。例えば、ちょめちょめ原子がちょめちょめ回振動したくらいですとか。それは伸びたり縮んだりして、流れの最中では人生の全体で長く苦しく、いま岸から上がって眺めてみると、それは人生の一部であり一瞬でしたなぁはっはっはっ、みたいな仙人的な返事をするでも無く、それらを妄想に留めて普通に返事します。その私の返答に対して、さらに何かがあった試しがない、相手が腑に落ちた感じとか、納得の相槌とか、若造が所詮そんなもんかとか、それらが無いです。虚無ないし、ふぅ〜んという空気が流れるこの感じは、今日も良い天気ですね、今日も寒いですね、に近いものを感じます。そういうジャブみたいなものだろうと、いまは思っています。
でも、この問いは、個人の心の中で時間をかけて転がすにはもってこいの題材だったりします。店を始めて、そろそろ通算4年になりますが、眼鏡士になったのはいつからだったかなと。例えばこんな風に問いを変化させます。同じようなことを言っているようで、微妙に違います。要は、眼鏡屋を始めたら眼鏡士に自動的になるのかならないのか?そこは本当に不可分なのか?眼鏡士とはなんぞや?資格のことか?とかとか。
そこでウィトゲンシュタインが要るわけです。言語ゲームとか、映画の中でも「ふるまいの一致」というキーワードが出ていたはずです。いまの流れを受けると、一体いつから眼鏡士としてふるまうようになったのか?みたいな話です。そもそも眼鏡士のふるまいとは何か?も含まれます。
私個人で言えば、子どもが先日生まれ、皆からお父さんになった実感は?とめちゃくちゃ聞かれますが、子どもが産まれてすぐで父としてのふるまいをした記憶も無いですし、そもそも父としてのふるまいって何だ??みたいなところがやはり未着手ですから、基本は「無い」と即答しています。すると、こいつには人の魂が無いんだな…と思われていそうな気配がいつもするんですけど、そういう、要らん逡巡があるんですよ。嬉しいかどうかで聞いてくれたら、嬉しいで返事出来るのに、みな、なぜ。
少しのらりくらりしましたが、とても大事なことのように思えます。アパレル業界からついに、メガネ店が生まれましたよね。別にそれがどうのこうのは興味が無いんですけど、自分のポジションを確認する機会ではありますからね。