今月の100分de名著が、いまの言葉で表現するところの神回でした。テキストが殊更に良くて、10年ぶり位に『善の研究』にトライしてみようという気概が生まれました。今なら、もうちょい分かるところがあるんじゃないか、という予感がします。
この前の『はじめての言語ゲーム』も、5年〜10年ぶりに読んでみると分かるところが増えていて、それがどうってことも無いんですけど、それなりに自分も人生でちゃんと苦労しているな、よしよし、なんて思ったりします。その記述に似たような具体的な場面、記憶がフワッと蘇ってくる感じです。あの『はじめての言語ゲーム』に関しては、8章以降はてんでダメだったものが、10年経てば何となく「あぁ、アレか」みたいには分かったつもりです。第10章に、本居宣長の言語ゲームを持ってきた、そのこと自体にも深く感動するとは思わなかったですね。そうか!と。まえは、なぜ唐突に?くらいな所感でした。
この2〜3年の間に沢山読んできた小林秀雄は、なぜ本居やベルグソン推しなのか、それと柳宗悦との相似とか、色々考えました。それを、眼鏡で表現するには?それはあんまりこういう形式等々で言明しなくても良いことで、ブルバキである私の経営課題なんですけど、上手くいっているかどうかはイマイチ判明しないまま、そういえば移転して2年経ちました。おかげさまです。
私には上司がいないから、こうでもしないと軌道修正が出来ない、創業理念的な、出立のときの想いから外れていないかチェック出来ないので、こういう本を読んでみたりします。今日は久々に来客が緩やかなので、あ、間違えました、14時半現在で0人でした。忙しい期間のあとは、たまに店でも本を読んで、一人会議をしていたりします。実際の場や機会があれば、読んでいないかもしれませんね。















