カテゴリー:雑記

またオーセンティックから遠のいた
雑記

24.06.25

勝手に買えって感じですし、すぐ買えって話なんですけど。

今年こそバンズのオーセンティックを買おうと思い、色々識者の方から伺ったりお店に履いてきているお客さんに見せてもらったりしていたのですが、結果、全然違う二足が足元にあります。いつも言っていますが、これ以上は事情により靴は増やせないので、今年のオーセンティック購入は諦めました。去年も実は諦めています。

アシックス・ゲルカヤノの30、エクストラワイドです。性能面で、どれほど違うのか興味がありましたし、エクストラワイドのワイド感の違いが知りたくて。

カヤノトレーナー21を履いていますが、カヤノ21のソールと比べると、フワッフワなのにバインバイン跳ねる感じがめっちゃしますね。特に母趾球とか中足骨頭の蹴り出しのバインバインがすごいです。

プルプルの透明なゲルが無いのが寂しいです。重量の関係で、本気のランニングシューズでプルプルのゲルが戻ることは無さそうですけど。

もう一足がこれ。最終セールで税込4,400円を切っていたので。円安のいま、そんなことある?というレベルでした。こんなにカッコいいのに。

今すぐ履きたいところですが、似ているスニーカーが多々あり、玄関に置くには1足の処分を家族に要請されているので、5年後くらいには履けるようになっているかもです。完全にダメになっていない物を捨てられない性分なので。ダメになる前にフリマで売ることもしたことがなく、使い潰す派のため、そうなるとめっちゃ後です。

ワンチャン、新しいカテゴリーのスニーカーとして認証されて、何かを処分せずに玄関に置けるかなと思いまして、プレゼンを試みました。画像をみた瞬間に同じスニーカー過ぎるということで、プレゼンするまでもなくダメでした。

スーパーロング雑記
雑記

24.06.10

『確率論 舟木直久著 朝倉書店 (2004) 222ページより』

もちろん?大学の数学は全部忘れました。こんなに忘れるのかっていうくらい、10年ぶり以上で読んでみましたが第1章の初めから分からなかったですね。当時もあんまり分かっていなかったのでしょうけど。

 

さっきの『センスの哲学』で思い出したことを適当に。

とくに1回目と2回目に読んだときに、センスの分析を“リズム”とか“ビート”とか称して行っていくのですが、“うねり”と称するのがあんまり納得出来ずにいました。納得出来ずと言いますか、自分の理解や納得にとって都合の良いイメージが頭に浮かんでおらず、いまいちピンとこないと言いますか。

それで、ちょっと汚いんですけど。汚いといってもアートなので。それで許されるのか分かりませんが。

会田誠さんの『スペースウンコ』って作品があります。あれのおかげで完全に理解に到達出来ました。

なぜうねりなんだ?という引っかかりがあるわけです。こういう場合によくあるモチーフは波なのに、なんでうねりなんだと。それで、なんで波ではいけなかったんだとかうねりって何が特徴?とか頭の片隅に置いておいたら、急にシナプスが結合してあのイメージが降りてきました。皆さまのうねりのイメージをお待ちしております。

上下左右と奥と手前、強弱等々なるほどなと。しかも波というと私は東映の海の波がザッパーンっというのをまず浮かべますが、あの波は重力に従っていて、地に着いていますね。うねりだったら地を這いながらうねってもいいし、地を離れるほど強烈にうねっても良い。詰まっても良いし、伸びていてもいい。それがうねることかと、アレで全部理解できました。波じゃダメっす。ダメじゃないけど物足りないっす。

それで冒頭の数学になるんですけど、ポーリャって教えて頂いたはずなのでポーリャでいきます。ポーヤなんですね。

ランダムウォークに関する定理です。ランダムウォークの方が内容そのままなので理解が捗りやすいですけど、日本語の酔歩の方がかわいいです。ランダムウォークは詳しくはウィキペディア等々で調べてみてください。

コインを1枚用意して投げて、表で右に1マス移動、裏で1マス移動するとして、10回投げて始めのマスから右・左の何マス目に居るか?みたいな話です。

例えばコインを2回投げて、初めに表、次も表なら右に2マス目に居ます。

例えばコインを2回投げて、初めに裏、次に表なら初めのマスに戻りました。

ちなみに始めの地点に戻るには、相殺しないとダメなのでコインを投げる回数は偶数回でないといけません。

 

随分と遠回りをしてきました。それでポーリャの定理なんですけど、さっきのランダムウォークの移動を拡張します。例では右左のみ、つまり線上(1次元)でした。もっと複雑に上下も増やした平面(2次元)とか、うねりで考えたようにさらに奥と手前もオッケーにして空間(3次元)で歩いてみるわけです。

ポーリャの定理では、3次元以上では殆ど始めの位置に戻ってきませんと言っています。恣意的に、6回投げるときに(上,下,右,左,奥,手前)と戻ってくる経路を考えることは出来ますけどね。戻る経路はこれと他を合わせても全体と比べてかなり少ない為、確率的に戻らないというのか戻れないというのか、そんな定理です。けっこうすぐに戻れなくなることに、まず驚きです。ポーリャの定理が、100次元以降は戻れないとかだったら即座に納得出来そうですが、いま住んでいる3次元ですでに戻れないとか言われると、ちょっと疑いたくなりますよね。

途中で始めの地点を通過することもあるかもしれません。すごく遠くの地点に行っちゃうかもしれませんし、割と始めの地点から近くでずっとぐるぐるくすぶっているかもしれません。まあでも戻るってことは、3次元以上では殆ど無いのだそうです。

例えば3次元で考えて、それぞれ1/6の確率で移動するということでサイコロを振る想像をしてみるのですが、全部等しく1/6の確率でサイコロを振り続けるのだから、差し引きで戻っても良さそうとも思えますし、常に6個の選択肢があるのだから、どっか別の場所にフラフラ行ってしまうのも理解できます。ぴったり1/6ずつ目が出ないと戻れないのだから、まあやっぱり戻れないかとも思えます。12,000回サイコロを振って、1〜6が2,000回ずつ均等に出ることは確かに無さそうです。ポーリャの定理は、3次元以上ではまず放蕩ということです。平面の酔っ払いはお家に帰れますが、空間の酔っ払いは迷子です。

そしてこの結果に、大学生のときに驚いたわけです。なのでこれだけは覚えていました。ランダムウォークという、人間(酔っ払い?)の人生をかなり単純化したモデルでも3次元で6つの選択肢で放浪してしまうので、そりゃ実際の人生はもっとふらふら放浪かつ放蕩しちゃうよなと。ちなみにランダムウォークのミソは右に対して(−右)としての左があり、上に対して(−上)としての下があり、奥に対して(−奥)としての手前というのがルールなので、純粋に6つの選択肢ではありませんが。いずれにせよ、これくらいで発散して戻れなくなっちゃうわけです。現実の選択肢の多さとそのうねりは、もちろんもっともっと複雑多数にあります。

この雑記は放浪せずに、もう一度『センスの哲学』に再帰します。本の中にも書いてありますが、コレがセンスの必勝法みたいなものは載っていないんですよね。そりゃそうだって言われると元も子もないのですが、みんなそれぞれ別の道を歩んでいくわけです。散り散りバラバラです。ランダムウォークみたいな最単純なモデルすらバラけるのですから、現実はもっとでしょう。もし書内で“コレだ!”みたいな答えを1つ用意したところで、そこからせーので各々の人生をスタートしても、結局うねってうねってバラけるわけで。やっぱり答えは一つに纏まらないという帰結は想像に難くありません。

『センスの哲学』では身体性に最後帰ります。やっぱり個性にくっついているみたいなところに戻ります。それは焦らなければとても温かい着地点だと思いました。ポーリャの定理から、人間は勝手にバラけるわけですから。他人と違うというセンスは確保されています。ちなみに試行回数が増えるほどバラけます。つまり戻ろうと焦ると余計にバラけます。

勝手にオリジナルなセンスは生まれ出るとも言えますし、すでに漏れ出ているわけです。自分の身体とその近傍くらいを把握している人にセンスが悪いと言われると傷つくかもですが、把握していない人から言われてもポーリャの定理から自明なことですねってことで心を守れます。今いる地点が違うだけかもしれませんねと。

最近メガネのブログばっかりだったので、たまには逸脱してみました。

3周目
雑記

24.06.10

なんとか3回目を読み終えました。じっくりを三回ではなくて、サラサラのパラパラを三回です。

この方の本はいつも親切に前半後半で分かれていて、本の真ん中で中間まとめが用意してあります。少なくとも前の著作の現代思想入門には中間のまとめがありました。これがいつも助かります。大体前半は1回目でそこそこ分かって、分からないのがポツポツ出始めるのが後半からというのが、いつもの私です。

人それぞれですが、おおよそ私の場合は結局後半が分からないというのは、前半は分かったと思っていても、じつは染み込むレベルで分かっていないということが多々なので、面倒なときもありますけど毎回頭から読むのが常です。

3回目で、なんとなくこの本の肝はこの箇所かなと感じました。自分なりの肝ポイントが出来たので、つぎに読むまでにしばらく期間が開けられそうです。とりあえずの納得感が得られました。

とくに箇条書き手前の、“これで行くんだ”と決める、というか諦めるしかないの部分は特に。しょうがなく諦めるのでは無くて、勇んで諦めるんですよね。

この諦めは、結論のアンチセンスに繋がっているはずです。寝ても覚めても自分から離れられないんです。反復と差異がセンスと言いながら、毎日まいにち自分で自分が好きだろうが嫌いだろうがお構い無しに、自分でしかありえないという当たり前で絶望的な反復をしています。まず自分であると、自分でしかないと諦めるわけです。

この本以外でも、昨今は身体性と言われているのですが、なんとなくそれの意味が分かりました。

これ良さそうです
雑記

24.06.04

2本入りケース界に新たな刺客が現れていました。

中敷を畳むと、特大1本入りケースになります。60年代のめちゃフロントにボリュームがあって畳みで嵩張るフレームや、70年代のめちゃレンズがデカくて大きいケースじゃないと歯が立たないフレームも収納出来ます。現代のスポーツサングラスも入りそう。

 

1本ずつ収納するにしても、けっこう畳みで嵩張るフレームがそれぞれ収納できますし、個人的に一番良かったのは、ケースの中でフレームがカチャカチャ動く量が少ないというところです。レンズとかフレームとか、ケース内でコツコツと鳴っていると、割と気になっちゃう派です。

あとは、素材がEVAとポリウレタンで、めっちゃハードなケースではありませんが、適度な弾力性とコシがあります。カバンに放り込んでも耐えうる張りは感じました。内側からのカチャカチャの衝撃も吸収しているので、コツコツ音とか、いろいろ気にしなくていいので個人的には理想のケースに辿り着きました。良いですね。

カッコいいメガネケースに憧れますが、結局は持ち運び用は実用重視になっちゃいます。とりあえず在庫しておきます。

レジェンド
雑記

24.06.02

トミカのシステムを詳しく知らないのですが、新しいクラウンがトミカ化されていたので、そろそろこのピンクも無くなるのかなぁどうかなぁというので、心配でとりあえず買いました。

もう10年前なんですね。ものすごく衝撃的だったと記憶しております。しかもあの価格でこれをやってしまうという凄さ。特にクルマが好きというわけでもなく、クルマ情報にあれこれ触れ続けている人間ではないんですけど、これは向こうから視界に入って来ましたし、いつまでも記憶に残っています。

自分で店を始めて、銀無垢で商品を作るということを続けておりますが、その過程でいつもこのクラウンが頭をかすめます。この“ワオ!”を越えられているだろうかと(いや、超えられていない)。わりと崇拝です。

とりあえずトミカで所持です。

Siriも知ってた
雑記

24.05.26

花壇のランタナが、気づけばもう咲いている。冬はカッサカサに枯れていたのに。

今年もかわいい。

雑記2
雑記

24.04.28

正義と悪のシンプルな対立の時代は終わりました。正義とされる側には対話派と武力行使派で対立があり、悪とされる側も破壊を好むものとそれに無理やり付き合わされる者の隔たりがあり、他にもあれこれあって、そもそも正義と悪の各々の構造が複雑です。そうすると正義と悪の対立がシンプルではなくなり、正義が悪をやっつけることも、それって善だっけ?みたいに思えてきます。そして正義とは?悪とは?と考えてしまいます。

わんだふるぷりきゅあ!の話です。私の時代は、正義は紛れもなく正義、悪は紛うことなき悪で、正義が勝つ!ドカーン!!みたいな感じだったんですけど。

特にわんだふるは、主人公ペアが白魔道士タイプなのが驚きでした。時代が変わっていることをとても感じます。

雑記
雑記

24.04.28

推すという言い回しが定着した気がしますが、その代わり例えばファンという言い方が減少気味になってきたなぁと、撮り貯めた番組を観ながら思いました。

とくべつ「日本語の乱れが〜」とか言うタイプでも無いので、そういう表現もあるのか面白いなあと思っていたくらいの感じだったんですけどね。ファンとか表現することが減ったなぁということで、とりあえず推しの増加ファンの減少と仮定したときに、推しとファンで何が違うんだろうなと。言い回しだけなんですかね。

とりあえず、“ファン”を検索しようとしたら、いきなり予測検索で《ファン 好き 違い》が出てきました。恋愛系の甘酸っぱい回答がたくさんあって、なかなか良いです。てっきり好き=ファンと思っていましたが、そこにも微妙なズレがあるようです。確かにそうだ。

ファンの語源は、どうやらfanatic(熱狂的な)らしく、語源からすれば好きの延長上にファンがあるような気もします。でも好きになった人がいて、付き合ってファンになった結果としての結婚ということでも無いので、好きの領域内にファンはありそうですが、直線上では無さそうですね。ここでは好き≒ファンくらいの認識にしておきます。

好き過ぎると狂ってしまうわけで、まさに熱狂するわけなんですけど、好きというのは主体が取り込まれちゃう感覚があります。主体の変容ということで、自分も変わって相手も変わってハッピーなら最高なんですけど、パクッとまるごと相手に取り込まれて骨抜きのメロメロということもありえますよね。好きはそんなイメージがあります。

推すという言い回しを自分がしないものですからあれなんですけど、これもまず検索です。

これも面白くて《推し 好き 違い》がすぐに予測で出ます。しかも、私は検索トップにタウンワークの2023年9月18日の記事が出てきました。題名は『推しと好きの違いは?恋愛感情はあるの?恋愛カウンセラーに相談してみた。』で、これも甘酸っぱい系です。

そこでの推しは『見返りを求めず、応援したい感情』で、好きは『相手と特別な関係になりたい感情』とあります。詳しくはそこを読んで頂くとして、推しを使わない人間なりに予測していた推しのイメージにぼちぼちあっていました。なのでとりあえずこれを採用します。

そうなりますと推すというのは、けっこう断絶していますね。繋がっていないため、こちら側が取り込まれることも無いですし、自分が変わることで相手も変わって欲しいみたいな期待も生まれないですし。そんなにドライに皆さん推しているんですかね。自分は全く不変、そういうことでも無さそうに見えます。言葉はドライな要素を含むのですが、推し活と言われるほどに活況ということを鑑みますと、なにか推しを理解するのに足りていないことに気づきます。

本当は見返りが欲しい、それはふつうのことだと思うんですけど、そうだとしてその見返りとは何なのか。何なんでしょうね。自分の店に当てはめると、けっこう考えちゃいますね。

 

ふむふむ
雑記

24.04.11

センスの哲学を読み始めています。前の現代思想入門の、その応用編って感じです。まだ読み終えていませんが、実生活に当てはめるとあれこれこういうことで、良い塩梅の脱構築がセンスということなのでは無いかと。実生活に当てはめてあるので、現代思想入門を読んでいなくても、この本だけで面白いです。

引用箇所のちょっとイヤミな表現は、まさに刺さる部分です。同一作品における見方の対立ではありませんから近い例えではありませんが、読みかえて“大意味”を“ハイブランド”で“小意味”を“物の作り・手仕事の具合”みたいに読みかえると、『ブランドのロゴTがカッコいいかどうか問題』でこういう光景をよく見るよなと、たちまち解ってきます。

この本にも続くように、小意味がいつのまにか権威になり、それこそがネオ大意味になってくると、今度はそれを転倒する・脱構築することが進歩であり、この本でいうセンスということになるのでしょう。基本に還れでハイブランドがネオネオ大意味になることもあるでしょうし、ただ本当に単純に還るのでは退化になりかねないので、それでネオネオ大意味としてのハイブランドのスローガンとして、クワイエットラグジュアリーみたいな言葉が出てきているのでしょうね。

私の店はちっこい店でハイブランドで無いことは自明ですから、どう脱構築するのか、どれくらいするのか、これが今も昔も経営課題ということになります。

鳴き声は久しく聴いていない
雑記

24.04.11

この日はコレみたいな、例えば正月のおせち的な季節の食べ物をしっかり食べなくては、みたいな家庭では無かったので、未だにその辺には疎いです。そんな私ですが、子どものころから春になるとウグイス餅を食べるみたいな機会が何度かあり、大人になった今もウグイス餅だけはぼちぼち食べています。ケーキは高くなりましたけど和菓子はそんなになので、つい買いすぎました。

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