カテゴリー:雑記

夏の自由研究
雑記

23.08.22

度なしのレンズって、結構重いんですよね。体積がそれなりにあるということです。ガラスレンズの加工をしていると特に感じますが、度なしの重たさはなかなかです。組み上がり品でそれを実感できるのは、例えばレイバンのラージメタルのずっしり感とかですね。

加工後の同一形状で比べたときに、均一な厚みのものと真ん中と縁で厚みが異なる湾曲したものを比べたときに、どちらが重たいか?これを調べてみようと思います。

今回のケースでは、一個前のブログに載せた銀無垢のサーモントの玉型で比較を行っています。度数の有無とデモレンズ時の重みの差を把握している事で、銀無垢のサーモントの掛け心地が、着用者の度数云々でどれくらい変わるのかが予想出来ます。試着と完成時のギャップを埋めることが可能です。販売店向きの成果ですね。

加工前の予想では、度付きが度なしの1.2倍〜1.5倍くらいに留まるかなと思っていました。まあまあの近視で厚みがあるレンズでも、度なしの2倍にはならないと。

結果は、流石にミラクルなんですけど度なしと度付きで重さが一緒という結果になりました(⑴と⑷の比較において)。

 

先ほどの銀無垢のサーモントの製作時に、ちょうどいい例が揃いました。同一フレームで、

⑴度なし(CR39)

⑵度なし(デモレンズ)

⑶度つきと同じ素材で度なし(1.60材)

⑷自分の度数(1.67材)

この4つで比較してみます。

ちなみに私の度数と設計は、ざっくり s-5.50 c-0.75 ax180 で、FPD≒PDです。流石に少しでも軽くということで、1.67使いました。

⑴度なしCR(色付き)

⑵度なしデモレンズ(ペラペラのあれ)

⑶度なし1.60材の可視光調光

⑷私の度数の1.67材の可視光調光

⑷の補足①です。中心厚が1.0ミリで、縁厚が耳側の水平方向で4.2ミリです。余談ですが1.60材だと縁厚が4.8ミリくらいになる計算でした。トップ画像がそれで、リムからのレンズのはみ出し具合はあんな感じです。

⑷の補足②です。数字だとよく分からないので、私の度数というのは風呂はメガネ無しでギリいけるくらいな感じです。視力0.1が無いので、視力表の一番上が分からないです。くっきり見える距離が20センチくらいになりますから、露天風呂が楽しめない度数です。

⑶と⑷の補足です。材質が異なりますが同一メーカーの同一コーティング且つ比重は両者ほとんど一緒なので、今回は⑶と⑷は素材が一緒とみなし、⑶と⑷の比較によって単純に度数の有無での重さの比較が出来るものとします。

予想に反して、ミラクルで⑴と⑷が一緒になりました。⑶と⑷でも、度付きにしても1割増し以下に抑えられているという結果に。

⑵とそれ以外を比較することで見えてくることがあります。メガネとしていざ使おうとなりますと、デモレンズを交換しないといけないのですが、なにかしらのレンズに入れ替えると、大体みんな同じ重さになるということです。そうであれば、店頭陳列時に初めから⑴か⑶に交換しておけば、試着時と完成品の装着時の感覚のギャップが生まれにくいということになります。

⑷はとりあえず強めの近視で縁が厚いレンズなんだけど、FPD≒PDという条件によって、厚みがあるところが大体どこもカットされているという都合のいい状況でした。同じ度数でも、例えばPDが60ミリなら耳側が厚くなりますから違う結果になりそうです。ただその場合、鼻側は今回よりも縁が薄くなるので、差し引きで大幅に重たくなるとは考えにくいです。

一方で、遠視系の凸レンズは一番厚みが出る箇所が加工後もレンズに居続けます。外径指定が出来るかどうかがかなり大事になります。凹レンズでの考察とは異なりまして、FPDとPDの関係で⑶<⑷となりやすいかなと、新たな予想もたちます。

もちろん、レンズサイズも関係があります。銀無垢のサーモントはレンズサイズ47ミリでした。レンズが大きければ、⑴<⑷だったことでしょう。

ややはじめの主題とズレる部分もありましたが、度なしのレンズもまあまあ重いことがこれで分かりました。割と強めな近視のレンズと同じくらいの重さという結果を得ました。ついでに、今回用いたフレームにおいては、あらかじめ⑴か⑶に変えておくことのメリットを把握することが出来ました。

引用元
雑記

23.07.19

おそらく15年くらい前、中二病真っ盛りのときに『存在と時間』の深い緑色のやつを、上巻だけ買って以来ですね。あのとき罹患しつつも賢明だったのは、朱色みたいな下巻を買わなかったことでして、緑の上巻は多分実家に転がっています。当たり前なんですけど、それにしてもめっちゃ分からんかったです。

寛解していたんですけど、“根源”なんて言われたら、しかも“芸術作品の”だなんて。特に響くわけです。古傷が疼いて、みごとに再発です。

この前のインスタの写真は、『芸術作品の根源』から引用しております。物に迫るということで、それだけだと何だかとっつきようが無さそうですから、一旦道具と芸術作品の違いを考えたらそこから棚ぼた的に‘(単なる)物’に近づけてませんか、みたいな流れだった気がします。

何か具体的に感想じみたものを書き下せるほど分かっていませんけど、少なくとも『存在と時間』よりは手応えがあります。何となく分かる感じはあります。いまはそれぞれ1回ずつ読み終えて、『技術とは何だろうか』の2周目です。

例えば『技術とは何だろうか』の《建てること、住むこと、考えること》の第2章の始まりはこんな感じです。

いきなりカッコいいです。それに、道具全般に適用できる問い方ですよね。メガネを作ることは、メガネを掛けることにどこまで属しているでしょうか。

ちなみにこの2冊にたどり着くことが出来たのは、ブルバキでは毎度おなじみの、シリーズ・哲学のエッセンスのおかげです。

なんだかハイデカーも色々あるみたいですけど、とりあえず日本では読んでもまだオッケーな雰囲気ですよね。

急に気になる
雑記

23.07.10

さまざまな方面で、短期間に立て続けに“価値を問う”的な謳い文句に出くわしたお陰で、今まで気にしていなかった“価値を問う”が急に気になっています。ブルバキも、黎明期はそんなことを言っていたかもしれませんね。

商品説明や作品説明で例えば“現代の価値を問う商品・作品”みたいに使われることがあると思うんですけど、よく考えてみると少しおかしい気がしてきました。現状分析として製作の動機として価値を問うことはおかしく無いのですが、制作結果としての商品にしろ作品にしろ、それらはその問いの答えであって欲しい気がします。暫定的でもちろん構わないので。

ものすごく端折れば、間違ってもいいんで、間違うとか無いと思いますが、答え聞きたいっすという気分になりました。

そもそも“問う”ということは、問う前にその問われるものが間違っているのでは?という心理が働いていると思うんですよね。個性とは?と悩んだ瞬間に個性の危機に瀕しているのと似ているように、健康なときは健康について考えないように。価値とは?と問い始めてしまった時点で、自分の価値観に歪みが生じているのか、それとも外の価値が歪んでいる(と思っている)のか、いずれにしましても何かしら上手くいっていないのか、なんか不満がありますよね。自分と価値の関係に問題無ければ、問わないですよね。最高の質問はそれ自体が答えであるものと言われますから(出処忘れました)、物に問いと答えがセットで内在していて欲しいわけです。問うで終わって後はご自由に…という場合でも、やっぱりそこに在るそれが、答えを表しているんでしょうね。そう言う意味での問うは、つまらないものですが…と同じ大人の処世術と同じです。問うなんて言われると、ちょっと威圧感があるような、強い雰囲気がある言葉な気がしますけど、つまらないものですがと同じと気付ければ、日本の謙譲の精神に繋がるので怖くは無いですね。

そんなことを考えていますと、そもそも価値・価値観が問われなかったことが一度でもあったのか?ということが、とても気になってきました。冒頭でブルバキも黎明期は…と書きましたが、例えば銀無垢の製作の動機としてそういうのを前面に出していたのであれば、それは当たり前過ぎたのかなと反省に繋がります。作るときに必ず用いる手段として自他の現状分析をしますが、ほとんどそれと同意義、そういうことなんですかね。

ということで自分もリセットして、次は何を動機にすれば良いのかなと模索中です。

ちょうどいいくらいの遠くへ行きたい
雑記

23.07.07

豊田市民芸館に行きました。

名鉄だと、名古屋から向かう場合は知立で乗り換えです。知立駅自体も知立駅周辺もグングン綺麗になっていますけど、しばらく乗らないうちに三河線の線路沿いも綺麗な建物増えた気がしました。20年ってすごいですね。

駅を降りると、周辺案内があります。

 

展示ももちろんですけど、庭園、建物、什器等の目に入るどれもが美しくて良いですよ。平日昼前で、私含めて2組くらいしかいなかったので、くつろぎ放題でした。

 

パンフレットの常滑焼の箇所なんですけど、それであればその土管こそが民芸ということでは?と思ったりします。国民の生活水準をぐんと引き上げる手仕事なわけですから。

始まりにして至高だったり、正法像法末法に近い歴史観でどんどん悪くなっていっちゃうみたいな見方もありますよね。物理でいうところのエントロピー増大の法則とでも言いましょうか。純粋な物がどんどん混ざっちゃう、勝手には混ざるけど逆は起こらない。勝手には純粋に戻らないみたいな話に近いと思っています。

ただ、製品の場合の混ざるとは創意工夫であって、何か外からの要求や内から芽生えた問題意識に対しての改善・改良を含むわけですから、改悪があるにせよ何かしらの改良が必ず含まれていますよね。

敷地内になんとかいう建物がありまして、まさにこれなんかは日本家屋からの混ざり具合が最高だと思いました。混ざることでしか生まれない良さもありますよね。

 

全く話は変わりますが、私は冷やし中華原理主義だったりします。しました。

名古屋は冷やし中華にマヨネーズをかけるらしいですが、私はかけません。さっきあれほど語っといてなんですが、冷やし中華はアレが始まりにして至高だと思っていました。ゴマだれも不可です。

ブルバキの店の近くに、歴史を刻めという美味しいラーメン屋さんがあるんですよね。定休といえども木曜日に、店で加工をしたりお金のあれこれ事務仕事をすることが多々ありますが、そのときに今年度に入ってからなんですけど、大体寄ります。

昨日は民芸館に行ったあとに、周辺に飲食店もコンビニもないものですからどうしようと悩んだ挙句に店まで戻り、歴史を刻みに行きました。たまたま日替わりオンリーの日で、冷やし中華一択でした。

それこそ冷やし中華は初版初刷りしか認めんみたいな人間でしたから、注文もためらいましたし、丼が到着したタイミングもまだ腕を組んで「娘はおまえにやらん」の一点張り状態でしたけど、食べてみたら今までのどれよりも好きでした。感動しました。

ちょうど民芸館に行ったあとでしたし、あれこれ考えていたタイミングというのもあって、起源と本質の差について巡らせていました。つまり、私が意固地になっていたのは、冷やし中華の起源と本質を重ね合わせた上で、あれしか認めん!ってなっていたわけです。起源と認識しているものも、本当は起源では無いかもしれませんけど。とりあえずあのさっぱりと酸っぱい冷やし中華は起源であって、冷やし中華の本質を全て含むわけでは無いかもしれないという発見がありました。

さまざまな物に対して、実際には本質と起源が完全にズレていることは無さそうです。隙間が存在する程度なんだと思います。ですから始まりにして至高なことが確かに多いですし、自分もそうですけどそのように思いやすいですよね。隙間程度しかないことは開発側からすれば、新しい何かが生みにくいことの原因のひとつでしょうね。でもちゃんと、その隙間からヤバイものが現代でも出てきますね。

 

最近読んだ本
雑記

23.07.01

もともと、同じ本を何度も読むタイプの人間だったんですけど、昨今はその傾向が強まっていまして、新しい本を読んでいないですね。これは3年ぶりくらいに3度目か4度目くらい。どんどん新しい物に挑戦しなくなったという観点から、歯止めの効かないおじさん化とも捉えられますし、どうなんでしょうね。

ある程度寝かせてから読み返すと、新しい発見があるというのも何度も読むことの良さです。こんなこと書いてあったかな?的な発見です。加えて、ライフステージが変わったタイミングであれこれ読み返すと、発見どころか本の評価とか印象が180度変わっていることもありまして、それが面白いです。

新しい本を挑戦しづらくなった、腰が重くなってきたというのも一理ありますけど、いまは“あのときと、読後の感想が違う”という自分の変化を楽しんでおります。

 

この本に関しては、初めが面白くて終盤は何だか…という感想でしたけど、今回読んでみたら結構終盤にかけてバイブス上げていくタイプの本でした。

引用部分の岡潔は、小林秀雄でいうところの【直覚と分析】に通じますよね。本文でも「小林:お説の通りだと思います。」と書いてあります。

直覚から分析が始まりますが、分析から直覚には至らないというアレです。なぜ銀無垢でメガネを作るのか?究極は分析では知り得ないですよね。直覚を例えば感動という語に置き換えれば、好きだからそうしました、それしか無いわけです。銀無垢で作る理由が100個あったとしても、なぜ銀無垢なのか?この理由は、はっきりと捉えられないわけです。美しいと感動しちゃったからつい出来心で、そんな表現しか許されないわけです。それはあなたの感想ですよね?ということでスタートにエビデンスが無いということになりますけど、だからダメでは無くてそれもまた良いということでしょう。

この『人間の建設』の前に読み返した『中動態の世界』と『暇と退屈の倫理学』と『はじめてのスピノザ』が重なったお陰で、結末がスゲーって思えたのかもしれません。この3つは【自由意志の否定】が根底にありますけど、それももっと理解出来た気分です。

もし自由意志みたいなものを感じたときは、むしろ感じてしまったから個人店を営むに至っているんですけど、それは過去の切断であり、つまり分析の中断・停止であって、今回の『人間の建設』でいうところの「知るためには捨てよ」ということに繋がると感じました。

そこまで書いたところで、それで特に何も無いんですけどね。殊にメガネに関して、ますます自分の感想くらいしか書くことが無いな、店頭では感想を述べるしか無いなどうしようかなと悩んでいます。

今さら舞いあがれ
雑記

23.06.19

朝ドラの「舞いあがれ」で、主人公のお父ちゃんが工場の現状を料理でたとえて

「レシピと調理器具と料理人が揃っている」

みたいなセリフがありました。お父ちゃんが無くなる直前に、主人公と工場の中で会話するシーンです。だから工場も機械もひとも、そっくり残したいんやと。

最高に分かりやすい例えで、以来そのたとえを使わせてもらっています。実際の鯖江の現状や、銀無垢フレームを作って下さっているメーカーさんの現状はよく知りません。詮索するのもアレですし。展示会等々で会っても、物の話のみですね。大人な経済の話とか、そういえばしないですね。

その料理の例えがありまして、全部そうなんですけど特に銀無垢のサーモントは、本当にいま実現出来て良かったなと、ドラマ見ながらそっちで感動していました。それをさっきのブログを書きながら思い出しました。

調理器具や料理人に色々あったとしても、レシピさえあれば、レシピが失くなっても出来たことを証明する物が存在していれば、朽ちない素材でそこに在ってくれれば、何とか出来る希望は残るかなと。人間は我思うゆえに我があるのに、物は思わなくてもただそこにジッと在りますからね。やっぱり物はヤバいですね。

補足
雑記

23.05.31

一個前の、銀無垢のサーモントで補足といいますか余談です。

物だけを考えれば、あそこまで開発に力を注ぎ込んだのであれば、鼻パッドまで含めて全て銀無垢という考えが自然だと思います。鼻パッドを無垢にすると、何でもカッコ良さがマシますし。

自分の店に当てはめますと、例えばヴィンテージのゴルチエは特にそうだと感じていまして、鼻パッドをクリアのプラスチックからチタン素材に替えるだけで、見違えるほどカッコよくなったりします。そういう感覚は私だけではなさそうでして、その徴候として巷の現行のフレームを眺めましても、チタンパッドが予め付いているメガネが増えてきていると感じます。

ところがどっこい、なぜか分からないんですけど、この銀無垢のサーモントは違う気もしています。すみません。

掛けたときに、他者の目線がどう動くかの話になるんですけど、やっぱり眉毛の銀塊にまず目線がいって欲しいんですよね。そして、それだけで充分な気がします。脇目も振らず、凝視して欲しいわけです。それか少し欲張って、眉毛からテンプルのヤゲンに沿って、耳まで目線が動いて、もういちど眉毛にクギズケになって欲しいわけです。

そうなりますと、鼻パッドの存在は消したいということになりまして、普通のプラスチックのクリアが良いかな、せめての変化球で黄色かなと感じてしまっています。

私の経験の範囲で言えば、コム・デ・ギャルソンの服にもそういうことがありませんか。この服のこの生地で、ボタンこれ??みたいなことが。いまそれが、すこし理解できた気がしております。

 

先に開発した、ヨーロッパ型の銀無垢のサーモント(眉毛パーツがプラスチック素材)のときは、そんな気が全く起こらなかったです。銀無垢の鼻パッドが付いている方が、物を単体で見たときにカッコいいですし、掛けたときも銀無垢の鼻パッドの方が良いと感じたんですけどね。そもそも図面の段階でプラスチックの鼻パッドが付いていたので、すみません無垢パッドに…とお願いしたくらいですから。

サーモントタイプのフレームと一口に言っても、全然形が違いますし狙いも違うので当然なんでしょうけど。プラ眉毛のサーモントは、眉毛以外が銀無垢であることで、眉毛の軽やかさを際立たせて質量の落差で魅せることを目指しましたから。

何かしらのブレークスルーで、鼻パッド(特大)が出来たらもちろん嬉しいですし、速攻で銀無垢のサーモントに取り付けますけどね。目線が〜とか、ごにょごにょとカッコつけて言いましたけど、やっぱり全部銀無垢が一番カッコいいわぁとか前言撤回で恥ずかし気も無く言うでしょうね。

今はそんなこんなで、銀無垢の鼻パッド(大)の完成を喜びつつ、あれこれ取り替えが可能なので、組み上がりの一体感を重視するのか、更なる装用感の向上でプラスチックを使うのか、はたまた眉毛を目立たせるために積極的な手段としてクリアや黄色のプラスチック素材のパッドを用いるのか、どれが一番良いのかなあと悩んでいる感じです。

 

おじさんの日々
雑記

23.05.10

4月からランニングを再開するにあたり、ちゃんとしたプロセスで靴を買ってみようと思いまして、陸上競技専門店で買ってみたんですよね。それまでは量販店で何となく柔らかくてそこそこ安い物を購入していましたけど。

それで初めて幅まで計測して頂きました。そのときに幅も甲の高さもめっちゃありますねみたいなことを言われました。その時は、まあそうなんだなぁくらいで終わり、いつもの普通の幅の靴をいつも通りのサイズ感で買いました。

結局のところ幅がわかったところで、幅を合わせる概念があんまり無いですよね。メガネでいうブリッジ幅みたいな感じでしょうけど。

 

それからしばらく経って、アシックスのオンラインで足の計測が出来るので、昨日ちょいとやってみました。自分で足の写真を撮るんですけど、それがこのあいだの実測値となかなか近くて驚きました。誤差5ミリ以内だったはずです。

幅の値も出るんですけど、「あなたの足の幅は平均よりとても広めです」という診断が出て、やっぱり「とても」なんだなと実感しました。

アシックスは幅も選べるモデルが何種類かありまして、ちなみにエクストラワイドでいつものスニーカーサイズよりマイナス1.5センチの診断が出ました。そんなん言われたら、それを履いてみたいなーってなりますね。

雑記
雑記

23.04.10

この2週間くらい、店頭でしっかりとメガネの話をしていました。その反動で、雑記の中の雑記というものを書きたい衝動が。

30代の真ん中になりますと、たしかに味覚といいますか嗜好が変わりますね。若い時には信じられなかったことが現実に起こります。

年齢的にちょっとその変化が訪れるのが早いかもですけど、ご飯のおかずは冷奴があれば最高ですね。もはやそれさえあれば。気温が高かろうが低かろうが、キンキンに冷えた冷奴はいつでも安定して美味いです。ちょっと前までは、冷奴はおかずにカウントしないという、ご飯の準備をしてくださる方全てを敵に回すような危険な思想を持っていたんですけど。回心しました。

スライスしたトマトが入っている形式のハンバーガーがありますよね。あれはどう思いますか?今までは生のトマトが好きではなかったので、外すまではしなくとも要らんなぁって思っていました。それもここ最近変わりまして、あった方が美味しいから入れるんだなと、ようやく理解できました。

それって結局、のどごしが良い方に嗜好が流れているかと思いきやそうでもないようです。チロルチョコのアソートがありますよね。小さいときからあれのミルクが好きで、コーヒーヌガーはちょっと苦手でした。いまは逆で、コーヒーヌガーが一番で、ミルクは1個あれば十分という感じです。

変化しないことには超人的として憧れますし、変化し続けないとダメというのも納得で、そうなりますと、その都度自分の心が落ち着く方に陣取れば良いと思うんですけどね。そうは言ってもとにかく変化しなくてはと焦るときもあります。意外にも内側を探すと他人からしたら屁みたいな変化かもですけど、生きてる以上なにかしら変わっていることがあるものですね。

おじさんの味覚の変化ということで、本当にしょうもない情報だったんですけど、自分としては特にトマトが入っている形式のハンバーガーが好きになったことはかなり大きな変化でして、久々に発見の鋭い喜びを得ました。

美の呪力を読み終えました
雑記

23.04.10

美の呪力 岡本太郎著 より抜粋。

 

あとがきによると原稿の執筆が1969年とのことで、万博の準備と並走してこの内容の本を仕上げていることに驚きました。やはり超人です。

これまで私も、名言集くらいしか本は読んでいませんし、芸術は爆発だ!的なイメージからくるような、トンデモない感じで面白い人という認識だったんですけど。文章からくるイメージは、トンデモないキレ者でした。

タローマン等々の、まず爆発だ!的な雰囲気にフォーカスが当たっているからこそ、この手の読み物の冷静にずっしりと語りかけてくる感じが一層重みを増しているように感じます。まさに岡本太郎の目指していた、弁証法的な対立の衝突を感じます。

デュシャン以降は、芸術は美を追求しないみたいなことを何かしらで読んで、そう言うもんですかと、納得したふりをして今まで生きてきました。岡本太郎がタイトルに「美」を使っていたという事実だけで、読む前からちょっとホッとしました。

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