カテゴリー:雑記

お気にの時計
雑記

24.01.10

昨日、年末に出した修理から戻ってきました。リューズ周りの故障だけでも2回目。もうあちこち古い部分は壊れ切ったと信じたいところです。昨年の余暇資源は、時計に取られ過ぎました。

オリエントのグランプリ100です。一番好きな時計なんですけど、あれこれあって通年で使えたことが未だに無いので、今年こそ。中身はオーバーホールしてもらってから、ずっと快調です。

時計のことならこの本ということで。グランプリ100は曜日が漢字で「*曜日」表記なのも乙です。

時計の駆動に関係ないところに石を埋め込みまくっています。天邪鬼の究極ですね。この感覚の商品開発が出来たことが羨ましいですね。洗練というよりも本気のおふざけ的な。時計のケースもシースルーバックでは無いため、ルビーとサファイアの石は使用上は一切見えないです。ユーザーは、石がちゃんと100個あるどころか1個すら確認出来ないです。すごいぞグランプリ100。おそるべしグランプリ100。

メガネでいえば、ちょっと前に蝶番の枚数だけでメガネの良し悪しを量るみたいなムーブがありまして、7枚蝶番が至高とされていました。現実では7枚が最大だと思いますが(9枚を見たことが無いだけかもしれません)、ついに二桁到達、12枚蝶番!みたいなものが仮に存在したとして、そういう感じでしょうか。昨今のセルでいえば生地が厚ければ厚いほどカッコいいというルールがありますから、その極致として15ミリ生地みたいな。そういうの面白いですね。

ブルバキもそれで言いますと、銀無垢において重量**グラム突破みたいな追求をしていたこともあるので、軽ければ良いとされるメガネフレームのルールに対して、貴金属の文化を持ち出し、やっぱり大事なのはグラムでしょ!ということをしていました。単純にそれだけだと理論として弱いため、ただひっくり返すだけでは戻るのと同じですから、重量バランスという概念で免罪符を添えたというのがブルバキの銀無垢の流れでした。

ちなみに本を見ると防水のタイプがあったみたいです。褒めてるのかちょっとバカにしているのか分からない感じの、

“…一連の競争はいつのまにか、本来の目的から徐々に逸脱する方向へと進む。”

というのが良かったりします。逸脱し切ったおかげでヤバい個性として残った訳ですから、いま考えられる本来であったり本質みたいなことだけでは尽くしきれない何かはちゃんといつでも存在しているということでしょう。それが励みになります。

多分どうでもいいこと
雑記

23.12.24

この前、『現代思想入門』をまた読んだと書きました。そこで有限性云々書いたのですが、書きつつ微妙に納得出来ない部分がありましたので、今度はこれをまた読みました。やはりイブは暇なので。そろそろこの本も10回目くらい。

 

『現代思想入門』において有限性の説明が、行動や身体の有限性からされていたのですが、『現代思想入門』を読むと、そういう個々の人間の有限性とか人類の有限性ではない、“もっとどうしようもない有限性”を感じました。

『現代思想入門』から再度引用です。

それってアレだよなということで、無限といえばの冒頭で紹介した『無限論の教室』です。これは本当にいい本で、著者のあとがきにもあるように、読むといつでも大学に戻った気分にさせてくれます。ディベートでは無い、平和な応酬に溢れたあの場所です。

上2つは、『無限論の教室』の引用です。

引用した通り無限と有限の隔たりは「必要に応じていくらでも概念を増やしていける」自由が存在することを保証します。そこは『現代思想入門』と共通しております。無限と有限の隔たりに深い絶望を感じるのではなく、いつまでも続けられるポジティブさをそこに見出すわけです。物でいえばいくらでも新しいものが、例え微小な変化だとしても作ることが可能ということになります。

さらに引用に「定義上ということは、人間が有限時間で死んでしまうから数えてきれないということではありません」とあります。ここが、はじめに書いた“もっとどうしようもない有限性”の肝です。どうしてもたどり着けないわけです。一個人では当たり前のようにたどり着けないわけです。それなら人類でということになるのですが、人類もいつかは滅亡するという自明な有限性を孕みますし、個人から人類と拡げたところで、やはり定義上たどり着けないということですから、どうしようもなくたどり着けないわけです。

その事実を受けてどうするかということなんですけど、虚しさを滲ませず、分かっていても自分の範囲のことをやるということが大事なんじゃないかという結論に至ります。それこそが、これもこのブログで何度も何度も書いたあの本なんですけど、内村鑑三の『後世への最大遺物』のあの倫理観に接続していくのではないかと、そんなことを考えたところで今日は帰ります。

今年もありがとうございました。まだありますけど早めに
雑記

23.12.19

今年は家族の生活スタイルが変わってなんやかんやとありました。それもあって店を超休みました。すみませんでした。こればっかりは直しようもなくて、むしろますます私が待機する番が増える予想で、来年はもっと休むと思います。

定休日といえば加工が溢れれば加工をし、大体の経理もそこで行うことが多いので、わりと貧乏暇なしでした。特にそれでストレスも無いんですけど、どこに行くでもなく、何をみるでもなく、あっという間に一年が終わろうとしております。テレビは外せない『探偵ナイトスクープ』と『オドぜひ』に加えて、辛うじて『笑わない数学』の録画を消化出来ました。そして『セクシー田中さん』と『ブギウギ』は何週か見逃して諦めました。

今年は、1時間程度で出来るメンタルコントロールとして夏は市民プールで泳ぐ、それ以外の季節はバーガーキングで何かしらのオールヘビーを食べるか歴史を刻めを食べるということを覚えました。それでほとんどのことは整いますし、お陰さまで一年穏やかに過ごせました。

しばらくこのブログに読んだ本の感想を書いていないですね。もちろん本もそこまで読んでいないです。ハイデカー関連を3冊ほどと、トップ画像の千葉雅也さんの『現代思想入門』くらいです。ハイデカーの存在論と現代思想は対立関係にあるので、丁度よいバランスだったのかもしれません。

ただ、この『現代思想入門』は今年だけでも3回くらい読みました。なんとしてでも、このタイミングでもう一回読んでおきたいみたいな感覚が起こることがあり、いま3度目を読み終えたタイミングで書いております。

『現代思想入門』から引用です。前振りに関係しますが、この箇所に救われたんですよね。おそらく来年も、なんとか生活をこなしながら店を開けることのみに行動が絞られるのでしょう。ちょっと前は、何かを摂取したり吸収してメガネに還元しなくてはと、特別なことをしなくてはと思うときもありましたが、今はまだ余裕が無いならやらなくていいかなという感じです。またそれが出来るような時間が出来たり、自然にその気になればそうしたくなるかもなぁくらいな心持ちです。

前も引用して書いたかもですが、ここでいう否定神学的な心のあり方とか近代的な有限性と呼ばれているものは、本当の物「X」とか「対象a」を使って説明がされております。

ブルバキを例にすると分かりやすいです。究極に美しいメガネ(=X)を作りたいと願って、例えば銀無垢のサーモント(=対象a)を作りました。あの銀無垢のサーモントは、あれはあれで一つの到達点であり大変満足できるものではあるのですが、Xであるかどうかと言われると、想像の段階ではそうであったのに現実に出来てしまった瞬間からXで無くなってしまいます。出来上がった対象aとしての銀無垢のサーモントを目の当たりにして、あれをこう出来るなぁ、あれもこれも出来るなぁと、いくらでも改善改良が次々に思いつきます。出来上がった物からXへ、まだまだ漸近できます。そもそも銀無垢のサーモントがXへ通ずる唯一の道ではないわけですから、漸近のイメージは数Ⅲ的な点とか線ではなく領域とか空間以上であり、取り上げた本でもXの周辺を対象aがグルグルしているというような表現なのは、そういうことです。Xの周りにガスのように対象aたちが渦巻いているイメージです。

つまり、Xに対してa(1),a(2),a(3),…と捉えようとする行為や作品が思考上は無限に可能であるのにも関わらず、現実の人間は寿命があって有限回のステップしか踏むことが出来ません。有限性というと難しいですね。要は少なくとも一個人だけでは本物には到達出来ないということです。本物とは?ということはここでは議論を避けます。

(再掲、銀無垢のサーモント)

出来ないと分かったところで、ではどうするかということになりますが、本にもあるように粛々と行動するのみです。つまりはXにはたどり着けないと分かったうえで、悲観せずただ作るのみです。

ということで今年は銀無垢の新規の製作はありませんでしたが、来年は新型があります。実は11月に脱稿しておりまして、あとは何も決まっておりません。

これも前振りに関連しますが、いまの状況で考えて物を作った方が、案外良い物が出てくる気がしております。ますます自分以外に時間を割こうとしているのは、もちろんそうしたいというのが第一ですけど、それによって漸近の仕方がまさに点とか線では無くなる感覚を覚えたからです。そう言いつつも、次の型においては、歴史的な意義とかアメリカを要素に入れるとかエビデンスとかよりも、自分が欲しいみたいなところを優先させてみました。いつも自分が欲しい物ばっかり作っていますよね?と突っ込まれると何も言えなくなってしまうのですけど。

はじめての壺
雑記

23.12.03

いろいろありまして、小鹿田焼を久々に買いました。

日常で使う器が結構揃ってきてしまいましたし、そんなに好きならもっともっと大きい何かが欲しいなということで、この大きさの焼き物を初めて買いました。子どもの頃、テレビ番組のなんでも鑑定団を見ていて、なぜ大人は食器以外の大きい焼き物を買うのか謎でした。まだ謎は謎のままなんですけど、謎がゆえに魅了されているのか、無事に私も壺を買う大人になりました。

それに合わせて、今年はストーブをバーラーからニッセンに戻しました。今年は炎ですね。

同封の小鹿田焼のパンフレットに

「みだりに昔をくずさぬように…」

と書いてあります。これがグサッと心に刺さるささる。直近の彫金のファイヤーパターンのことですかね??

次は蓋つきの壺で、打ち掛けか流し掛けの技法が組み込まれた大物を収集したいなと目論み中です。

そうなりますと民陶祭が気になります。年によってまちまちですけど、ちょうどメガネの展示会IOFTと時期が重なりますね。

後日談
雑記

23.12.01

怒濤のレストア連発が終わりました。平常運転に戻りました。

 

ファイヤーパターンの後日談。

日本だけかどうかは分かりませんが、手仕事=ほっこり感みたいな無意識の接続がなんだかある気がしまして、そこを打破出来るのでは無いかと思ったんですよね。瞬時にインスタのフォロワーが4人減ったので、やり過ぎたかもしれません。炎なので、ほっこり通り越して熱いですからね。

ああいう柄は、おそらくハーレーとかその周辺の文化から生まれた柄ですよね。私は大きいバイクは乗らないけれども、古いBMXやMTBの自転車に乗ります。ということで、BMXと言えばKuwaharaで、Kuwaharaと言えばライトニングパターンだということで発想をぐんぐんと膨らませました。そもそも柄の緻密さの回避とかブルジョワジーの回避から、ファイヤーパターンなり何なりのアメリカの大味でDIY的な柄を、敢えて日本の彫金でやってしまうという発想がスタートしています。それだったら自分にもっと関連のある柄を、自らの手でジグザグ稲妻を描いて、それを彫金して頂こうかなと、そんな心持ちでした。

岡本太郎もこう言っています。他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ、と。そしてレストアの納期に追われているというのにも関わらず、一日中稲妻を描くだけの日がありました。

 

バランかな?パック寿司食べたあとかな?みたいなイラストにしか到達出来ずに断念しました。自分の歌を歌うにしてもやっぱり限度というものはありまして、自主規制が入りました。テンプル裏面に彫金したとして、テンプルを閉じた予想は煉獄杏寿郎です。炎じゃん。

BMXのサドルで、サドル側面にあんな感じで3・4連のジグザグ稲妻が入る物が割とあるんです。それが好きで応用してみたのですが、結果は寿司ライダーになりました。

フラグメントデザインのような、小さい稲妻を数個散りばめる方が上手くいくかもしれません。いずれにしても、一旦ライトニングパターンは保留となりまして、原案通りのファイヤーパターンを彫金して頂くということになり、トップの画像の彫金が生まれました。だれかカッコいい稲妻が描けたら教えてください。

 

サントラ
雑記

23.10.13

ちょっと前にやっていた映画です。録画で観ました。

『サイダーのように言葉が湧き上がる』

たまたま何かの代わりで録画が出来ていたっぽくて、題名を観た時も「???」という感じでした。期待をもたず何となく観てみようかくらいの心持ちだったのが良かったのか、全部に感動しました。

特に音楽が良くて、勢いでサントラ買いました。最近は自分に課した鍛錬として買う前に調べず、買ってから調べるようにしているんですけど、LAMAのメンバーとのことで。そりゃ良いわけですね。そんなことははじめから分かることなんですけど、知ることは後に取っておくほど大発見出来た感覚が増して、得した気分になれます。

店でもこればっかり流しています。

限りなく黒に近いグレー
雑記

23.10.02

やっと読めました。テレビ番組の100分de名著で紹介されてから、結構時間が経ってしまいました。

側からみればサラリーマンでは無い私は、モモ側の人間ってことになるんでしょうけど、そんなことも無いです。読んでみて改めて、ちょっと期待しちゃいましたけど、そんなこと無かったです。灰色の男たちの一人でした。本を読み進めていきなり第3章でちょっと挫けそうになりました。

本を読む前に、これの要約である冒頭のテレビ番組をみており(なんなら1.3倍速で)、そして児童文学と言いながら大人も読む価値がある、むしろ大人こそ読むべき至高の一冊みたいな刷り込みがある状態でした。この第3章は、主人公のモモとも主要な登場人物のジジとベッポとも関係がほとんどない、街の子どもたちのごっこ遊びの描写だけで終わる章です。ストーリーの進展に関係ないですし、訓示めいたこともないわけです。

この本でいう灰色の男たちであるかどうか、読者を篩にかけるのがこの章な気がします。そして僕は灰色の男として篩に残ったタイプです。ストーリーの進展無いんかいっ!とか、作者の有難いメッセージが潜んで無いんかいっ!と思ってしまいました。直接かつ即時のリターンを求めすぎですね。

この辺なんかは自分のことを言われているようでグサグサって感じでした。昨年末の銀無垢のサーモントが出来たタイミングなんかは、こんな感じに燃え尽き症候群の一歩手前でしたね。

一応小学校5年生から6年生以上が対象みたいです。リアル小学生が読んだらどんな感想なんでしょうね。自分も小学生のときに読んでおきたかったですね。とは言うものの私自身は、はじめにとおわりにを読んで読書感想文を書く、本を全く読まないタイプの小学生でしたし、その行為が当時からすでに灰色の男たちのやり方でした。

スピノザの真理と虚偽の例え“光が光自身と闇とを顕わす”のように、透明な時間を生きている小学生だとしたら、『モモ』はどんな感想になるのでしょう。灰色の男たちとかが理解出来なくて、なんかよう分からんし面白くないなあって感想になるかもですね。面白く感じたら即ち灰色ってことでも無いんでしょうけど、灰色の私は面白く感じました。

斜めとは
雑記

23.09.15

現代の教育事情は分からないですけど、数学の科目を自分が小中高で習っているときは、導入というか定義というかそんなのからスタートして、どんどん問題が難しく複雑化していく感じでした。それでいつのまにか到達すべきところまできて、スパッと終わって次の章に…みたいな流れだった気がします。

いま思えばなんですけど、もう一度最後に、なんでこれやっていたんだっけ?みたいな締めがあったら良かったなぁと。定期考査が締め的な位置付けで、習熟度がどうのこうのも大事ですけど。優良可で優の子も可の子もみんな一緒で是非これだけは、苦手で嫌いだなぁという方もこの真髄は持って帰って下さいね、みたいな締めがあったらなと思うわけです。

そこで三角比について。とりあえず斜めの考察から入ります。

 

斜めって、全部縦と横に分解出来るんですよね。ゼロ(0,0)位置からスタートするとして、斜めに真っ直ぐ進んで(5,5)の位置にいるということは、横に(5,0)進んで、縦に(0,5)進むのと最後に居る場所は変わらないです。順序が逆でもオッケーです。本当は縦横ジグザグでも良いんですけど、直角三角形に結びつけておくと、あれこれ便利ということです。

斜めとは?斜めってあの斜めなんですけど、斜めのその心とは何ぞやとなります。数学も、困ったら国語辞書を使います。

『斜め[名・形動] 垂直・水平面や正面に対し、方向がずれていること。また、そのさま。(goo辞書)』

この斜めの辞書的な意味がドンピシャでした。垂直と水平、縦と横からのずれと言っています。つまり、斜めを分析する為には、垂直と水平が基準として大事ということです。それに先ほどの例で、全ての斜めは縦と横に分けて考えることができて、なおかつ都合よく直角三角形が作れます。

それで直角三角形といえば、三平方の定理とかピタゴラスの定理とか呼ばれるあれの出番で、直角三角形は、辺の長さが二つ分かっていれば残りのもう一つの長さも分かりますよということでした。

これの弱点は、縦と横が分かっていれば斜めの移動距離が分かりますが、斜めだけが分かっているときは役に立ちません。角度1度〜180度の中で、垂直は90度で一つ、水平も180度で一つです。世の中あとは全部斜めです。つまり現実はほとんど斜めです。ふつうは斜めから知りたいんです。では、斜めだけが分かっているときに、他に分かっていることは無いのでしょうか?

もう一度、辞書的な意味に戻ります。斜めは垂直や水平からのズレです。そのズレを表すときに他に手立ては無いのでしょうか。実は一つありまして、それが先ほどもチラッと書きました角度です。それで考えてみます。

一番最初の例の表現を変えます。あの例は、全体を俯瞰して見ている者だから点(0,0)から点(5,5)へ進んでいると認識出来たという点が大事です。進む当事者は、ある方向に向かってこれだけ進んだ、という認識なはずです。進んだ当事者目線での表現は、斜め45度に5√2進んだという形式です。そして、ところで私は横にいくつ、縦にいくつの場所に居るの?と、疑問の成立としてはこんな流れが自然と思われます。

ここで三角比の登場で、5√2にcosを掛けたら横の移動距離が得られますし、sinを掛けたら縦の移動距離が得られます。それらはまさに、両者5になります。

角度という新たなサポートが加わりましたが、三角比のおかげで斜めの長さだけが分かっているときに、横も縦も長さが分かってしまいました。すごいですよね。冒頭の真髄の話に戻せば、三角比とは、斜めの縦と横による分解と言えそうです。

三角比の定義からすると、字面のとおり辺から角度が決定できるとか、ある角度はこんな“量”を保持しているとか色々あります。でもやっぱり実務上は、三角比といえば斜めの分解だと思います。ここでの分解とは、例で行った縦と横への分解です。書籍等よくある表現で、長さrで角度θの斜めがあったら、横 x=r*cosθで縦 y=r*sinθというあれです。

眼鏡士の実務上は、この三角比の真髄とかも特に要らないです。そういうのは物に込められている場合がほとんどなので、例えばレンズメーカーさんの開発チームは使うかもですけど、眼鏡士では特に計算をして何かするというシーンはほとんど無いです。

そうなんですけど、あれらを使うとこれくらいの評価が出ますよという実例があったので書こうと思ったんですけど、すでにこの量なので今日は帰ります。ちなみにプリズム関係です。

下の花壇に
雑記

23.08.25

ビル下の交差点に花壇が二つあるんですけど、そのうちの一つがこれで生い繁っています。

この小さい紫陽花みたいな花なんですけど、可愛くて、どれ見てもバイカラーでめちゃくちゃ綺麗で気分が良くなる花だなと思っていました。

昨年までは調べたい気持ちを抑えて、謎のかわいい綺麗な花くらいの認識でしたけど、好奇心に負け、今年になって名前を調べてしまいました。

ランタナっていうんですね。知りませんでした。世界の侵略的外来種ワースト100にも選ばれているそうです。なんだか、好きになってはいけない人を好きになってしまった気分です。やはり、知らない方が良いことってありますし、調べない努力も大事ですね。

でもほんとうにきれいで、もう一つ赤とオレンジのバイカラーも咲いています。気になった方は扉に入る前に花壇に注目してみてください。

夏の自由研究
雑記

23.08.22

度なしのレンズって、結構重いんですよね。体積がそれなりにあるということです。ガラスレンズの加工をしていると特に感じますが、度なしの重たさはなかなかです。組み上がり品でそれを実感できるのは、例えばレイバンのラージメタルのずっしり感とかですね。

加工後の同一形状で比べたときに、均一な厚みのものと真ん中と縁で厚みが異なる湾曲したものを比べたときに、どちらが重たいか?これを調べてみようと思います。

今回のケースでは、一個前のブログに載せた銀無垢のサーモントの玉型で比較を行っています。度数の有無とデモレンズ時の重みの差を把握している事で、銀無垢のサーモントの掛け心地が、着用者の度数云々でどれくらい変わるのかが予想出来ます。試着と完成時のギャップを埋めることが可能です。販売店向きの成果ですね。

加工前の予想では、度付きが度なしの1.2倍〜1.5倍くらいに留まるかなと思っていました。まあまあの近視で厚みがあるレンズでも、度なしの2倍にはならないと。

結果は、流石にミラクルなんですけど度なしと度付きで重さが一緒という結果になりました(⑴と⑷の比較において)。

 

先ほどの銀無垢のサーモントの製作時に、ちょうどいい例が揃いました。同一フレームで、

⑴度なし(CR39)

⑵度なし(デモレンズ)

⑶度つきと同じ素材で度なし(1.60材)

⑷自分の度数(1.67材)

この4つで比較してみます。

ちなみに私の度数と設計は、ざっくり s-5.50 c-0.75 ax180 で、FPD≒PDです。流石に少しでも軽くということで、1.67使いました。

⑴度なしCR(色付き)

⑵度なしデモレンズ(ペラペラのあれ)

⑶度なし1.60材の可視光調光

⑷私の度数の1.67材の可視光調光

⑷の補足①です。中心厚が1.0ミリで、縁厚が耳側の水平方向で4.2ミリです。余談ですが1.60材だと縁厚が4.8ミリくらいになる計算でした。トップ画像がそれで、リムからのレンズのはみ出し具合はあんな感じです。

⑷の補足②です。数字だとよく分からないので、私の度数というのは風呂はメガネ無しでギリいけるくらいな感じです。視力0.1が無いので、視力表の一番上が分からないです。くっきり見える距離が20センチくらいになりますから、露天風呂が楽しめない度数です。

⑶と⑷の補足です。材質が異なりますが同一メーカーの同一コーティング且つ比重は両者ほとんど一緒なので、今回は⑶と⑷は素材が一緒とみなし、⑶と⑷の比較によって単純に度数の有無での重さの比較が出来るものとします。

予想に反して、ミラクルで⑴と⑷が一緒になりました。⑶と⑷でも、度付きにしても1割増し以下に抑えられているという結果に。

⑵とそれ以外を比較することで見えてくることがあります。メガネとしていざ使おうとなりますと、デモレンズを交換しないといけないのですが、なにかしらのレンズに入れ替えると、大体みんな同じ重さになるということです。そうであれば、店頭陳列時に初めから⑴か⑶に交換しておけば、試着時と完成品の装着時の感覚のギャップが生まれにくいということになります。

⑷はとりあえず強めの近視で縁が厚いレンズなんだけど、FPD≒PDという条件によって、厚みがあるところが大体どこもカットされているという都合のいい状況でした。同じ度数でも、例えばPDが60ミリなら耳側が厚くなりますから違う結果になりそうです。ただその場合、鼻側は今回よりも縁が薄くなるので、差し引きで大幅に重たくなるとは考えにくいです。

一方で、遠視系の凸レンズは一番厚みが出る箇所が加工後もレンズに居続けます。外径指定が出来るかどうかがかなり大事になります。凹レンズでの考察とは異なりまして、FPDとPDの関係で⑶<⑷となりやすいかなと、新たな予想もたちます。

もちろん、レンズサイズも関係があります。銀無垢のサーモントはレンズサイズ47ミリでした。レンズが大きければ、⑴<⑷だったことでしょう。

ややはじめの主題とズレる部分もありましたが、度なしのレンズもまあまあ重いことがこれで分かりました。割と強めな近視のレンズと同じくらいの重さという結果を得ました。ついでに、今回用いたフレームにおいては、あらかじめ⑴か⑶に変えておくことのメリットを把握することが出来ました。

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