『確率論 舟木直久著 朝倉書店 (2004) 222ページより』
もちろん?大学の数学は全部忘れました。こんなに忘れるのかっていうくらい、10年ぶり以上で読んでみましたが第1章の初めから分からなかったですね。当時もあんまり分かっていなかったのでしょうけど。
さっきの『センスの哲学』で思い出したことを適当に。
とくに1回目と2回目に読んだときに、センスの分析を“リズム”とか“ビート”とか称して行っていくのですが、“うねり”と称するのがあんまり納得出来ずにいました。納得出来ずと言いますか、自分の理解や納得にとって都合の良いイメージが頭に浮かんでおらず、いまいちピンとこないと言いますか。
それで、ちょっと汚いんですけど。汚いといってもアートなので。それで許されるのか分かりませんが。
会田誠さんの『スペースウンコ』って作品があります。あれのおかげで完全に理解に到達出来ました。
なぜうねりなんだ?という引っかかりがあるわけです。こういう場合によくあるモチーフは波なのに、なんでうねりなんだと。それで、なんで波ではいけなかったんだとかうねりって何が特徴?とか頭の片隅に置いておいたら、急にシナプスが結合してあのイメージが降りてきました。皆さまのうねりのイメージをお待ちしております。
上下左右と奥と手前、強弱等々なるほどなと。しかも波というと私は東映の海の波がザッパーンっというのをまず浮かべますが、あの波は重力に従っていて、地に着いていますね。うねりだったら地を這いながらうねってもいいし、地を離れるほど強烈にうねっても良い。詰まっても良いし、伸びていてもいい。それがうねることかと、アレで全部理解できました。波じゃダメっす。ダメじゃないけど物足りないっす。
それで冒頭の数学になるんですけど、ポーリャって教えて頂いたはずなのでポーリャでいきます。ポーヤなんですね。
ランダムウォークに関する定理です。ランダムウォークの方が内容そのままなので理解が捗りやすいですけど、日本語の酔歩の方がかわいいです。ランダムウォークは詳しくはウィキペディア等々で調べてみてください。
コインを1枚用意して投げて、表で右に1マス移動、裏で1マス移動するとして、10回投げて始めのマスから右・左の何マス目に居るか?みたいな話です。
例えばコインを2回投げて、初めに表、次も表なら右に2マス目に居ます。
例えばコインを2回投げて、初めに裏、次に表なら初めのマスに戻りました。
ちなみに始めの地点に戻るには、相殺しないとダメなのでコインを投げる回数は偶数回でないといけません。
随分と遠回りをしてきました。それでポーリャの定理なんですけど、さっきのランダムウォークの移動を拡張します。例では右左のみ、つまり線上(1次元)でした。もっと複雑に上下も増やした平面(2次元)とか、うねりで考えたようにさらに奥と手前もオッケーにして空間(3次元)で歩いてみるわけです。
ポーリャの定理では、3次元以上では殆ど始めの位置に戻ってきませんと言っています。恣意的に、6回投げるときに(上,下,右,左,奥,手前)と戻ってくる経路を考えることは出来ますけどね。戻る経路はこれと他を合わせても全体と比べてかなり少ない為、確率的に戻らないというのか戻れないというのか、そんな定理です。けっこうすぐに戻れなくなることに、まず驚きです。ポーリャの定理が、100次元以降は戻れないとかだったら即座に納得出来そうですが、いま住んでいる3次元ですでに戻れないとか言われると、ちょっと疑いたくなりますよね。
途中で始めの地点を通過することもあるかもしれません。すごく遠くの地点に行っちゃうかもしれませんし、割と始めの地点から近くでずっとぐるぐるくすぶっているかもしれません。まあでも戻るってことは、3次元以上では殆ど無いのだそうです。
例えば3次元で考えて、それぞれ1/6の確率で移動するということでサイコロを振る想像をしてみるのですが、全部等しく1/6の確率でサイコロを振り続けるのだから、差し引きで戻っても良さそうとも思えますし、常に6個の選択肢があるのだから、どっか別の場所にフラフラ行ってしまうのも理解できます。ぴったり1/6ずつ目が出ないと戻れないのだから、まあやっぱり戻れないかとも思えます。12,000回サイコロを振って、1〜6が2,000回ずつ均等に出ることは確かに無さそうです。ポーリャの定理は、3次元以上ではまず放蕩ということです。平面の酔っ払いはお家に帰れますが、空間の酔っ払いは迷子です。
そしてこの結果に、大学生のときに驚いたわけです。なのでこれだけは覚えていました。ランダムウォークという、人間(酔っ払い?)の人生をかなり単純化したモデルでも3次元で6つの選択肢で放浪してしまうので、そりゃ実際の人生はもっとふらふら放浪かつ放蕩しちゃうよなと。ちなみにランダムウォークのミソは右に対して(−右)としての左があり、上に対して(−上)としての下があり、奥に対して(−奥)としての手前というのがルールなので、純粋に6つの選択肢ではありませんが。いずれにせよ、これくらいで発散して戻れなくなっちゃうわけです。現実の選択肢の多さとそのうねりは、もちろんもっともっと複雑多数にあります。
この雑記は放浪せずに、もう一度『センスの哲学』に再帰します。本の中にも書いてありますが、コレがセンスの必勝法みたいなものは載っていないんですよね。そりゃそうだって言われると元も子もないのですが、みんなそれぞれ別の道を歩んでいくわけです。散り散りバラバラです。ランダムウォークみたいな最単純なモデルすらバラけるのですから、現実はもっとでしょう。もし書内で“コレだ!”みたいな答えを1つ用意したところで、そこからせーので各々の人生をスタートしても、結局うねってうねってバラけるわけで。やっぱり答えは一つに纏まらないという帰結は想像に難くありません。
『センスの哲学』では身体性に最後帰ります。やっぱり個性にくっついているみたいなところに戻ります。それは焦らなければとても温かい着地点だと思いました。ポーリャの定理から、人間は勝手にバラけるわけですから。他人と違うというセンスは確保されています。ちなみに試行回数が増えるほどバラけます。つまり戻ろうと焦ると余計にバラけます。
勝手にオリジナルなセンスは生まれ出るとも言えますし、すでに漏れ出ているわけです。自分の身体とその近傍くらいを把握している人にセンスが悪いと言われると傷つくかもですが、把握していない人から言われてもポーリャの定理から自明なことですねってことで心を守れます。今いる地点が違うだけかもしれませんねと。
最近メガネのブログばっかりだったので、たまには逸脱してみました。