久々に暇です。
年明けくらいからずっと考えていたことに対して、ここ最近の会話からある程度の終着点が見つかりました。時間あるのでメモして反芻しようと思います。
昨今、8割くらいの方は「シンプルな物が好き」では無いでしょうか?もちろん、統計をとったわけでは無いですが、店頭で服やメガネが好きそうだなという方に声をかけるときに、どんな物・どんな感じのものが好きかと訊ねると、割と高い確率で「シンプルなものが好き」と返ってきます。ブランド名で返ってくることが少ない感覚です。店頭にはシンプルな物は、ほとんどありません。銀のメガネも、シンプルで良いという感情は個人的には湧いてこないですね。シンプルが欠乏した状態で2年以上、何だかんだ続けられたのは皆さまのおかげです。おかげさまで、ようやくたじろがずに提案ができるメンタルを育むことが出来ました。
ちょっと前までは、デコラティブを通らずにシンプルさに至る道はあるのか?と、シンプルという言葉のもつ、削ぎ落としていくイメージに添いながら懐疑していました。そのイメージは私だけかもしれません。在るところから無くしていって、残りを頂戴する感じこそシンプルさの本質である、みたいな考え方です。
ですが、特にこの1週間は、それすらもどうでもよくなってしまっています。むしろ、それに固執していた自分が間違っていたと思っています。それよりも、シンプルが好きになった、その経緯に興味があります。自分も他人もそれぞれ。現代のシンプルさ、みたいなものが一つ存在していて、それが良い悪い考えることよりも、そんなものは無いという前提で、それぞれの好きという気持ちの強度を把握したい感じです。口語で簡単に表現すれば、「そもそもなんでシンプルが好きなんだっけ?いつからだっけ?」と、自問自答することに近いと思います。
これは、私の店のメガネ以外の骨董・古物を買うのが、ほぼ初めての方と一緒に買い物をするときに思い付きました。
欲しいものがあったときに、何年代か?品質はどうか?相場と比べて価格は妥当か?等々、あれこれ私に尋ねてこられました。確かに、得体の知れないものを買うのは、何回目だろうが不安がつきまといます。もちろん気持ちは分かります。そりゃ不安です。
そのときに、先のクエスチョンマークの要素のように、自分の外に頼らない方がいい訳です。いつまでも手が空を切る可能性があります。それよりも、自分が見てきた物、例え違うジャンルでも買ってきた物、それらの値段、作り等々、自分の内側にあるもので判断した方が、答えは見つかりやすいです。内在していて逃げない自己の経験と照らし合わせる作業をするということです。
例として店でよく耳にする、シンプルが好きという感覚を取り上げてみましたが、それ以外の感情や感覚も同様かもしれません。なぜそう感じるのか疑い、自分の外から得た要素を出来るだけ排除して、内側から滲み出るものを多くすることで、自分の感性の主導権を握ることが出来るのかなと、ぼんやり考えています。思っているということは、実際には背後のものに思わされているということも多々でしょうから、主導権を奪還することで、あれこれが一層楽しく感じられるのかなと思うわけです。