頂きもの。
『眼の哲学 利休伝ノート 青山二郎 講談社文芸文庫 1994』
まだ100ページ満たないくらいでこれを書いています。左の本は、柳宗悦の本です。この二人が仲違いした理由みたいなものを掴みたくて引っ張り出しました。そこをクリアにすることで、美術と工藝の争点が見えそうですし、今の民藝を讃える風潮の何が良くて何が弊害か見える気がして、調べていました。そもそもの出発点が違う感じも受けますし、美への接し方も違っておりますね。そうです、今日こそ本当に暇です。
それよりも面白く感じたのは、青山二郎の「眼」に関するこんな箇所です。
「(p.14)…思想から芸事に至るまで、結局銘々の流儀の源泉から産まれないで、何処から本物が生まれるでしょう。ところが…銘々の眼玉が銘々の流儀に従属して物ごとを見ている事は、いい意味にしろ悪い意味にしろ、余り気付かれていません。殊に現今に於いて然りです。誰でも銘々の眼玉で確と物ごとを見ている筈です。それなら眼玉で見た物を、何故眼玉で受止められないのでしょう。…」
この文章だけですと、「…???」という感じでした。難解です。ですが、違う作者の違う本での主張と、そこそこ同一視できるのではないかと感じております。それは、
『君たちはどう生きるか 吉野源三郎 岩波文庫 1982」
です。これも長いですが、一節を引用します。
「(p.53)…だから、こういう事についてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えて見るのだ。そうすると、ある時、ある所で、君が感銘を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。それが、本当の君の思想というものだ。…」
マンガ化されて、有名みたいですね。マンガの方は読んでおらず、何処を一番大事にして描かれているのか知りません。それを無視して私が好きな箇所であり、真髄だと勝手に思っているのは先の引用した部分です。人生の要所要所で必ず読んでいます。かれこれ6年位の付き合いです。
本当に良いと感じたときの‘本当さ’と言いますか、自分だけしか介在していない純粋さみたいなものは存在するのでしょうか?青山二郎の言葉を借りれば、「眼玉で受け止める」でしょうか。おそらく、そこまで純化したものは無いと思います。だとすれば、どこまで自分以外の要素を排除して感じることが出来るのでしょう。
眼鏡でそれを突き詰めようとすると、ヴィンテージの方が探求しやすいと思います。私が初めに感じた、ヴィンテージ眼鏡の良さはそこでした。とにかくデザインは驚きの連発でした。オシャレに見られる為には、この雰囲気のこの形状の眼鏡でなくてはならない、という無意識の作用から解放されて、メガネが一層楽しく感じるようになったのも、ヴィンテージに出会ってからだと思います。
メガネの良さは、それぞれにあって私個人が決めることでは無いですし、そもそもお金が発生しているので、私の考えとは切り離されて最後は渡っていくべきです。とは言いつつ、たまにあの時の私と同じような感覚で、驚きと楽しさを混在させながら眼鏡を買っていただけると、物凄く達成感を得ます。
ヴィンテージのメガネの取り扱い範囲に関して、ニッチ過ぎたり同業他社と交わらない範囲の物が多々なのは、私が天邪鬼であることもそうです。経営の観点から、ブルーオーシャンの様相だからというのもそうだと思います。でもやっぱり一番は、出会ったことのない物を見たときの感動から出発して、それを身につけることの楽しさを体験して欲しいからですね。
良い本です。読み終えていませんが良い本です。おかげさまで久々に、初めのときの考えを、明確に思い出せました。