明日は休みです
営業案内

20.12.07

月一定例の眼科さん出張です。店にも居ません。また水曜日以降に。

手彫り例
無垢のメガネ(925silver,SPM)

20.12.06

いつも唐草ばっかり彫っていましたが、菱松模様も彫ってみました。アスタリスクみたいな形かと思っていましたが、三角形の外枠に囲まれて、放射状に松の葉がピッピと伸びております。私もこれまでしっかり見れていなかったことを反省です。これもとても良いです。幾何学模様で冷たい雰囲気かと思いきや、植物の有機的で健やかな雰囲気を纏っており抜群でした。民藝全集を読んですぐなので、やたらと物を褒めるときに健やかと言いたい気分です。

今までの柄の確認不足および在庫で持たなかった言い訳としましては、メーカーのサンプルではヒルトンクラシックみたいな、マンレー山に彫ってあるものしか見たこと無かったので、ちゃんとイメージ出来ていなかった為としておきます。

テンプルの広がった部分、広い面で松のピッピの伸びが鮮明な部分が特に良かったです。非常に健やかでした。切削面の鋭さ、煌めきの落ち着いた感じがたまらんです。

まだまだ続く
雑記

20.12.06

ようやく、決着が自分なりにつきまして、わからないことが好きというのは有限主義なんだなと。そうです、以前のブログ書いてからも、延々と考え続けていますよ。

分からないことが好きというのは、「この文は間違っている」に近いなと。つまり、分からないことが好きというのは「分からないことが好きということが分かっている・明瞭である・判明している…」という状態を示していると思うんですけど、分からないというイメージとしては濁っている感じのことが、迷いのない透き通ったイメージの好きと組み合わさっており、結局どっちなの?好きなの?嫌いなの?この文は合ってるの?合ってないの?みたいな疑問がずっとありました。

違うんだと、混ざっていないんだなと。分からないという濁りをそのままパッケージしてそこで区切り、その上でパッケージごと好きなんだなと。そういうことかと、何となく腑に落ちました。つまり、好きという宣言が有限主義の宣誓そのものなのだと、そういうことです。その方がいつまでも分からないとして、延々のたうち回る可能無限や実無限の立場よりも賢明なのかもしれませんね。

それでお前はどうなんだという話なんですけど、お会いした方はご存知の通り、分かりやすいものが大好きです。今日の、ケミカルな黄色の花瓶は結構気に入っています。

吹上の骨董市やってました
雑記

20.12.06

昨日の夜に知って、急遽本日の開店前に覗いてきました。吹上の骨董市です。コロナでやってないのかなと、5月も9月も気にしていませんでしたが、どうあれ12月はやってました。

出店も半分くらいで、めちゃくちゃ空いていましたね。今年一番、コロナの影響を感じたかもです。もうアレですね、骨董古物もネットオークションの時代ですね。

とりあえず何か買わないとと思いまして、どの花の美しさも搔き消しそうな花瓶を買ってみました。特に黄色がケミカルな黄色で良かったです。あと、初めて公式の買い物袋を頂きましたが、これのニセモノ感が私には刺さりました。

15時で閉めました
営業案内

20.11.25

すみません、水曜日は15時で閉めました。貧乏暇無しです。こちょこちょ店離れて動いています。

金曜日は通常通りです。

途中、ピザの話です
雑記

20.11.25

民藝のお勉強。そろそろ、この本は前読んだあの本と似ているなとか思い始めたので、民藝が頭に入ってきたかも。全集7巻『民と美』です。色んなことが滅多打ちでして、私も無傷で読むことは出来ませんでした。

あれなんですね、やっぱり最大多数の最大幸福が念頭にあるんですね。そしたら、ブルバキの銀無垢等々は生産数一桁ばっかりなので、世界中の人々が使ってニッコリ出来ないので民藝の観点からはダメでした。ここでの分類ですと、美術工芸のカテゴリーでしょうか。いずれにしても、大半は健やかではないと一蹴されちゃうんですけど。やっぱりブルバキはカルチャー無いわー。しくしくです。

ちょっとブログで書く旬を逃しましたが、2週間くらい前に、ドミノピザをピザのプロ達が食べて合否を出すテレビ番組が放送されていました。

アレをみて思ったんですけど、それは村上隆の「アート」の分類から着想を得ていますが、pizzaとピッツァとピザが有りませんかね?ごめんなさい、突然変なことを言い出して。眼鏡屋なのに。以下、もうしばらくピザの話です。

なんとなく、ざっくりな分類で。イタリアの正統派な“pizza”、日本のお店による、pizzaの解釈によってうまれた“ピッツァ”、そして宅配ピザとかの“ピザ”です。ピザにピザ(伊)とピザ(米)の分類があるかもしれませんが、一旦省略です。さっきの、「ピザのプロ達」という部分は、この分類では「pizzaとピッツァのプロ達」となります。

これに、順序構造を組み込んでしまっていませんか?そこが引っかかったところです。無意識のうちに、“pizza>ピッツァ>ピザ”の順序が尺度として想定されていませんか。要は、ピザはpizzaとピッツァと同一の物差しで測りうるのか?測れたとして、その物差しではpizzaが最大となるのか?色々考えようと思えばキリがありませんが、

(ピザ)=k(pizza) (kは実数、0<k<1)

みたいな関係が、まさにリニアな関係が無意識に想定されている気がします。数式にしたらここまで何で一生懸命書いてるんだろうと、一層自分に呆れてきました。際立ちましたね。

ここで、もう一回ピザから民藝に話を戻します。民藝は、美を美術と美術工芸と民藝に分類するところから生まれているみたいです。そうしますと、pizzaが美術でピッツァが美術工芸で、ピザが民藝でしょうか。つまりは全部美味しいってことです。

眼鏡ですと、例えばブルバキに於いてですと、銀無垢の眼鏡に対して「チタンの眼鏡と比べてどう?」みたいな質問を頂くことが、ぼちぼちあります。

眼鏡だと分かりにくいですがピザなら分かり易いはずです。あっさりなピッツァの気分の時もあれば、マヨネーズがドバドバのピザの気分もありますよね。きっと、チタンの眼鏡と銀無垢の眼鏡の違いは、そういうことだと思います。

土曜日は休み
営業案内

20.11.20

土曜日は休みます。

日曜と月曜は通常通りです。この日は東別院のアンティークマーケットですね。

水曜日は休み
営業案内

20.11.17

明日は休みです。イレギュラーで、外商の予定です。

今年も登場
雑記

20.11.16

多分、過去2回はこのブログで紹介しているはずです。前は、表紙が違ったかも。良い本は何度も読みますし、何度もこれに書きます。他人に差し上げて一度は手放しましたが、結局自分が読み返したくなるので古本で買いました。一回は新品で買っているので許してください。

少なくとも1年以上は、前回読み終えてから期間があいております。そしていま読み終えての感想は、初めて読んだかのように面白いです。それは、内容が頭からすっ飛んでいたからというわけでも無いです。

大学の専攻は数学でしたから、今回読むまでは、実無限派として読んでいました。ですからこの本の中でのやり取りを、真剣に吟味しようとしていなかったんだなと、過去2回は読んだ気になっていただけだったなと、新たに気付けました。そしていまわたしは、やや可能無限派に属しているんでしょうね。片足は確実に突っ込んでいます。それが成長にリンクしているのかどうかは分かりません。現代科学は実無限派ですから、その観点からは退化かもしれません。

どっちにしても、この本の中でのやり取りが、自分に向けられているように(この本としては、私も3人目のゼミ生になったかのように)切実に響いたということは、自分が実無限派から可能無限派に移行しつつあることは間違いないです。カッコつけてあれこれ言ってみましたが、要はうんうんと、何度も読んでいてなりましたよと、ちゃんと染み込みましたよという話です。

例えばですね、私でしたら仕事的に眼鏡の美しさということになるんですけど、その美しさに対しての捉え方とかアプローチの仕方とか追求の仕方とか、それがまさに実無限的から可能無限的にと言いますか、そんな風に、店を続けるなかで移行をしていることに気づきました。特に読んでほほぅ!と手を打っちゃいそうな部分、移行を感じた円周率πについて書かれた箇所を引用します。

p.34「有限主義というのがあります。これは有限のところで頭打ちにしてしまって、可能性としての無限も考えないんですね。可能無限の立場は有限主義とは異なります。天井知らずの有限主義と言ってもよいかもしれませんが、あまりうまい言い方とも思えません。展開の果てしなき可能性、それこそが無限だと考えるのです」

「…πという無限小数のすべての位が実は確定しており、ただ人間がそれを有限の位までしか知らないだけだと考えるのは、まさに無限を実体としてそこにあるものとみなす態度にほかなりません」

p.229「無限は完成を拒んでいます。そこからはみ出たものを捉えようとし、捉えたと思ったときには新たなものがはみ出ていく。このたえざる歩みこそが、人間が無限を生きるということにほかなりません。そもそも完結した全体としての完全なんていうものがないのですから、『不完全』ということも無意味でしょう。例えばπの小数展開に対して人間が為した有限の展開が、完結した無限小数としてのπの不完全な認識なのではなく、際限のない未完の作業であるように、それはむしろ、永遠の未完成と言うべきなのです」

ちなみにp.229は、この本の主要テーマであるゲーデルの不完全性定理のざっくり証明が終わった後のアフタートークです。この“そもそも完結した全体としての完全なんてものがないのですから、『不完全』ということも無意味でしょう”という部分の味わい深さは格別だと思います。

そして、この引用部分の“無限”を、さっきの美しさみたいな単語に置き換えてみたり、各々で自由に理想とかザックリと、そして漠然とした長大なもの・こと等に置き換えますと、なんだかそんな気がしてしまいませんか。私は、そんな気がしてきちゃいました。

それで、そういう風に認識が変わったとしまして、明日からの提供される眼鏡がどう変わるんだと言われてしまいますと、おそらく大きくは変わらないんでしょうけどね。いつも通りのらりくらりで、ブルバキが急に明日から流行るとかも無いんでしょうけどね。ただ、そういう心持ちで店を続けるのだなと、続けるとはそういう意味がこもるのかと、ちょっと教えて頂けた気分になりました。なので、また懲りずに勧めておきます。

届きました
無垢のメガネ(925silver,SPM)

20.11.14

一般供給ありましたね。銀無垢のカットリムです。上代¥237,000(税抜)でした。ちゅどーん!もちろん仕入れも高いので、爆死です。

この幅で、まあまあな重量感なので、これ以上リム幅を設けると、流石に用の美から離れ過ぎるという感じなんでしょう。フロントヘビーになり過ぎちゃうはずです。

レンズの形状も、リム幅の緩急のつけ方も、メーカーさんのオリジナルで最高でした。デザイン関係の仕事をされているお客さんに教えてもらったことがありまして、本当にその通りだなと思ったことがあります。図面が天才。

磨き込んだ艶が、ツヤツヤ過ぎてもはやヌルヌルに見えるのが、写真でも伝わると思います。

小売店オリジナルの在り方というのを、最近よく考えます。何を要求しうるのか、そもそも何が要求として妥当なのか。よく考えた上でメーカーさんに投げて、素材のもたらす美と合わせながら、どういう意匠に変換されるのか最後はお楽しみというのが理想で、本当にそのプロセス全体がお楽しみになるためには、要求そのものの自己検閲と自主規制が大事なんだなと改めて感じております。そうしますと、銀無垢なんかは特に、初めの塊の一山たちが今でも個人的なピークですから、あとは何が眼鏡屋視点で要求出来るんだっけ?みたいな感じになっています。

そんなこんなで、いまようやく基本に還ることが出来た気がしておりまして、ポッと目の前に徐に出されたものを、見るだけ、それにもう一度集中できるようになりました。ブルバキの特注がメーカーさんの在庫になったりですとか、そもそもオリジナルとかいう概念が普遍性と喧嘩しているのもありまして、オリジナルとか俺だけの!ということに興味が年々薄れてきているというのも重なり、メーカーさんの在庫も、銀無垢に関しても仕入れてみています。

素材の特性を熟知し、眼鏡の製作に携わっていて方々に理解がある人があれこれのバランスをとって仕上がったものが、とても美しいなあと、心の奥で感じられるようになりました。

70年代のフレームの銀無垢による上位互換みたいなものが、ようやく登場です。

ブリッジの厚みです。カットリムのボリュームに合わせて、ややヘビーです。

プレスの模様が入っています。リムの磨き込みが凄すぎてピカピカですから、手彫りのキラキラを加えなくてもいい気がしてきました。また、プレス模様の無いプレーンも良いなと思いますし、バリエーションでそれもあると嬉しいんですけど、ごめんなさい無いです。ただ、真っさらな面があると、ピカピカ過ぎますし、カットリムで面が増えて指紋が目立つポイントが増えますから、ピカピカと指紋を分かりにくくするという二つの点を解消する為に、これに関してはプレス模様が入ることが、より望ましいなと思って仕入れています。基本は手彫り派ですけどね。これは例外です。

横が美しいです。カットのピークがちゃんと合わさっています。

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