明日は休みます
営業案内

23.08.07

8月8日(火)は休みます。

臨時休業
営業案内

23.08.02

8月2日(水)休みます。今度は風邪をもらわないようにして、金曜日は店を開けたいところですけど、今のところ分かんないですね。

明日は休みます
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23.07.31

明日は月例の眼科さん出張の為、店は休みです。

使い続けるとやっぱり良いですね
無垢のメガネ(925silver,サンプラチナ,木)

23.07.26

925フレーム。お客さんの。もう6年くらいですね。

人によってエイジングの具合が全然違いますね。全体に錦鯉のように燻された、かなりカッコいい変化パターンだと思いました。とくにテンプル先のエイジングの出方が綺麗でした。

ネジ穴はへたることもなくシャキシャキです。まだまだいけます。今回レンズ交換をし、その際にネジ周りをあれこれみました。

レンズ側のネジの受けはAPC(銀、パラジウム、銅の合金)で、テンプル側はステンレスでして、そこで道具としての信頼性を保持しています。硬い素材に変えてあります。特に開閉して締めたり緩んだりを繰り返すテンプル側は、ステンレスパーツの交換可能です。

メガネは細いし薄いし長いしなんなら可動部分もありまして、それと銀無垢の特性を合わせて考えますと、しっかりとした道具として使い続けることが他のアクセサリーよりもおそらくハードモードな代物です。ですけど、このネジ周りの堅牢さのおかげでクリア出来ています。このフレームの佇まいで、それがよく分かりました。

今日は休みます
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23.07.21

体調不良のため、本日は休みます。

試作
無垢のメガネ(925silver,サンプラチナ,木)

23.07.19

サンプラチナのオーバルフレームです。前回、黄色のセル巻きで同じように作りました。フラットレンズで濃いサングラスにしております。

ポップなセル巻きです。この緑のセル巻きに、サンリオ製品的なかわいさに近いものを感じております。素材や製品の仕上がりとは対極な軽やかさが最高だなぁということで採用しました。ちなみに私はラナバウツ世代です。

ポップさに惹かれたとはいえ、前面に出すぎると掛けづらいよなぁと。今までの反応もそんな感じが多かったです。

そこでこっちもサングラスにしてみました。緑のセル巻きに緑のレンズも良いですね。ヴィンテージのamorのやり方でもあるんですけど、かわいさが薄まっていい感じです。むしろかなり良い気がします。

サングラスだけの使用だと勿体無い気もするので、クリア時のポップさが気にならないのでしたら、調光のグリーンも良さそうです。

引用元
雑記

23.07.19

おそらく15年くらい前、中二病真っ盛りのときに『存在と時間』の深い緑色のやつを、上巻だけ買って以来ですね。あのとき罹患しつつも賢明だったのは、朱色みたいな下巻を買わなかったことでして、緑の上巻は多分実家に転がっています。当たり前なんですけど、それにしてもめっちゃ分からんかったです。

寛解していたんですけど、“根源”なんて言われたら、しかも“芸術作品の”だなんて。特に響くわけです。古傷が疼いて、みごとに再発です。

この前のインスタの写真は、『芸術作品の根源』から引用しております。物に迫るということで、それだけだと何だかとっつきようが無さそうですから、一旦道具と芸術作品の違いを考えたらそこから棚ぼた的に‘(単なる)物’に近づけてませんか、みたいな流れだった気がします。

何か具体的に感想じみたものを書き下せるほど分かっていませんけど、少なくとも『存在と時間』よりは手応えがあります。何となく分かる感じはあります。いまはそれぞれ1回ずつ読み終えて、『技術とは何だろうか』の2周目です。

例えば『技術とは何だろうか』の《建てること、住むこと、考えること》の第2章の始まりはこんな感じです。

いきなりカッコいいです。それに、道具全般に適用できる問い方ですよね。メガネを作ることは、メガネを掛けることにどこまで属しているでしょうか。

ちなみにこの2冊にたどり着くことが出来たのは、ブルバキでは毎度おなじみの、シリーズ・哲学のエッセンスのおかげです。

なんだかハイデカーも色々あるみたいですけど、とりあえず日本では読んでもまだオッケーな雰囲気ですよね。

7月17日(月)は13時〜15時くらいで検眼中
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23.07.16

そこだけイレギュラーで、他はいつも通りです。

枠入れ
修理とメンテ

23.07.12

お持ち込み。レンズは入るんですけど、1発踏んでしまっているのかリベット周辺に亀裂があるのと傾斜が左右でズレています。反対側のテンプルは、近いカラーの別フレームから移植されたテンプルでした。

テーブルタッチテストをして、とりあえず4点がついているので水平には戻せました。

急に気になる
雑記

23.07.10

さまざまな方面で、短期間に立て続けに“価値を問う”的な謳い文句に出くわしたお陰で、今まで気にしていなかった“価値を問う”が急に気になっています。ブルバキも、黎明期はそんなことを言っていたかもしれませんね。

商品説明や作品説明で例えば“現代の価値を問う商品・作品”みたいに使われることがあると思うんですけど、よく考えてみると少しおかしい気がしてきました。現状分析として製作の動機として価値を問うことはおかしく無いのですが、制作結果としての商品にしろ作品にしろ、それらはその問いの答えであって欲しい気がします。暫定的でもちろん構わないので。

ものすごく端折れば、間違ってもいいんで、間違うとか無いと思いますが、答え聞きたいっすという気分になりました。

そもそも“問う”ということは、問う前にその問われるものが間違っているのでは?という心理が働いていると思うんですよね。個性とは?と悩んだ瞬間に個性の危機に瀕しているのと似ているように、健康なときは健康について考えないように。価値とは?と問い始めてしまった時点で、自分の価値観に歪みが生じているのか、それとも外の価値が歪んでいる(と思っている)のか、いずれにしましても何かしら上手くいっていないのか、なんか不満がありますよね。自分と価値の関係に問題無ければ、問わないですよね。最高の質問はそれ自体が答えであるものと言われますから(出処忘れました)、物に問いと答えがセットで内在していて欲しいわけです。問うで終わって後はご自由に…という場合でも、やっぱりそこに在るそれが、答えを表しているんでしょうね。そう言う意味での問うは、つまらないものですが…と同じ大人の処世術と同じです。問うなんて言われると、ちょっと威圧感があるような、強い雰囲気がある言葉な気がしますけど、つまらないものですがと同じと気付ければ、日本の謙譲の精神に繋がるので怖くは無いですね。

そんなことを考えていますと、そもそも価値・価値観が問われなかったことが一度でもあったのか?ということが、とても気になってきました。冒頭でブルバキも黎明期は…と書きましたが、例えば銀無垢の製作の動機としてそういうのを前面に出していたのであれば、それは当たり前過ぎたのかなと反省に繋がります。作るときに必ず用いる手段として自他の現状分析をしますが、ほとんどそれと同意義、そういうことなんですかね。

ということで自分もリセットして、次は何を動機にすれば良いのかなと模索中です。

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